12月1日    多くの人を主に立ち返らせる。   ルカ書1525

[新改訳]  ルカの福音書             

1:8 さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、

1:9 祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。

1:10 彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。

1:11 ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。

1:12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、

1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

1:14 その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。

1:15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、

1:16 そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。

1:17 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

1:18 そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」

1:19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。

1:20 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」

 

 最近は、気力と度胸、根性の無い人が多いように感じる。言い換えると男らしくない男が多いということである。責任を取らず、決断をできず、言い訳ばっかり言っている。女らしい(優しい)女性が少なくなってきたのは、そのせいであるかと思っている。優しい女性がいても、男は男らしくならないが、男らしい男がいたら、女性が優しくなると思うのは偏見だろうか。

 

  バプテスマのヨハネは、それこそ男らしい男であろう。彼は荒野に住み、らくだの毛の着物を着てイナゴと野蜜を食べていた。彼は民数記六章にあるナジル人(聖別された者)であり、酒を一切取らず、髪の毛は切らずに伸ばしておかなければならなかった。

 

  ナジル人の請願は勇士サムソンの母や預言者サムエルの母によってなされ、彼らは母の請願に従って生まれながらにナジル人として生きることとなった。これは、バプテスマのヨハネの母エリザベツの請願でもあったようであり、祈りは聞き届けられ、彼らは皆、神に強く用いられる大勇士、神の人となった。

 

  サムソン、サムエル、ヨハネに学びと、神に用いられるためには、次のような条件があることがわかってくる。

 

@    悪の時代であって、義人が虐げられるような社会であること。

 

A    ひたむきな祈りに基づいていること。断食、早朝、徹夜の祈り。

 

B    美食に誘惑されず、酒を決して飲まないこと。

 

C    汚れたものを食べたり、見たり、接したりしない。

 

D    服装や暮らしに気を使わない。

 

E    決して人を恐れず、戦いを恐れず、信念をもって悪と戦う。

 

F    働きに神のしるしが伴う。しるしが起こると信じて生きる。

 

彼らの働きは、母親の切なる祈りに基づいている。苦しい時、報われない時、戦いの時、神に切に祈る女性たちがいる。リバイバルの発端は女性の祈りである。男らしい男は、勇気と忍耐を持った親によって、祈りによって、育て上げられる。

 

この三人の神の人に共通することは、母親は命をかけて祈るが、決して彼らを干渉せず、離れて生きていることである。サムエルは乳離れしたら、すぐ祭司エリのところに預けられてしまっているし、サムソンの親も神の器であると信じて、彼の蛮行を許し、従っている。ヨハネも小さい時から一人で荒野に暮らしたようである。男らしい神の器になって欲しかったら、このように干渉せずに、女性が切に祈り続けることが必要であろう。

 

 私も夜中に山に登って祈ったり、墓場で祈ったり、長期間の断食をしたことがあるが、そういうことをすると、人や失敗を恐れない度胸が据わってくる。来年は第三金曜の夜十時から一時まで深夜祈祷会を持とうと思っている。話もせず、ただ祈り続けるのである。

 

祈らなければ、何も変わらない。一生懸命生きるだけで、人生が終わってしまうのである。

 

@    祈らないと、悪と罪に呑まれて堕落してしまう。

 

A    いくら知恵を尽くしても努力しても、祈らなければ何も変わらない。

 

B    祈らないと神を信じ、奇跡を起こすことはできない。

 

C    物事は、人の働きによるのではなく神の御心によって決まるのである。

 

 

 

 祈らなければ、あなたの家族は救われないであろう。

 

 祈らなければ、あなたの人生は実りの無いものになるだろう。

 

 祈らなければ、あなたの毎日は、喜びと平安、愛の実りがないだろう。

 

 祈らなければ、あなたはいつもサタンや罪人に攻撃されるだろう。

 

12月8日  神の深い哀れみによる。   ルカ書15779

[新改訳]  ルカの福音書    

1:57 さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。

1:58 近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。

1:59 さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、1:60 母は答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。」と言った。

1:61 彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません。」と言った。

1:62 そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた。

1:63 すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ。」と書いたので、人々はみな驚いた。

1:64 すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。

1:65 そして、近所の人々はみな恐れた。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った。1:66 聞いた人々はみな、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう。」と言った。主の御手が彼とともにあったからである。1:67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。

1:68 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、

1:69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。

1:70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。

1:71 この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。

1:72 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、1:73 われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、 1:74 われらを敵の手から救い出し、1:75 われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。1:76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、1:77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

1:78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、

1:79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

 

先週は、ナジル人、サムソン、サムエル、そしてバプテスマのヨハネが生まれる経緯には、その母の苦しみからくる神への訴え、祈りがあることを学んだ。今日は、その父たちの覚悟を学びたい。

 

男性は女性と比べると神体験、信仰体験をあまり求めない傾向にある。それは、社会生活上、指導者や上司の期待が大きいと、それだけ大きな犠牲、努力、奉仕が求められることを体験しているからであろう。女性には、その点、組織や社会、家庭においても、できることはするが、後のことはあまり考えないという、現実思考が見られるように思われる。したがって、女性は信仰体験や働きかけに素直に対応するが、男性は将来や結果、組織や家庭のことを考えてしまって速やかには反応しない傾向がある。これらは、優劣でも差別でもなく、違いであり、理解することは判断の資料として重要なものとなる。

 

このようにして、教会や家庭において、行動や変化、対応の発端は、女性となる場合が多い。日本社会が危機管理や社会不安に対して不得意なのは男性有利、男性主導の社会構造だからであろう。

 

聖書の記事の多くは女性の行動から起こっている。それを男性が、始まってしまった現実、事件に不承不承対応するのである。皆さんの家庭でもそれは多いのではないか。したがって男性が専横する家庭では、殆ど変化がない。女性が否定的、批判的で、祈りがないとやはり、神の語りかけ、社会や事象の変化に対応できないであろう。

 

さて、妻たちの激しい祈りによって生まれた子供によって、家庭は全く一変してしまった。ザカリヤは、まさか老齢の自分に子供が生まれるなどとは考えもせず、祈り求めることもしなかったので、天使の言葉を聞いても現実味がなく、信じられないで否定してしまった。

 

乙女マリヤが懐妊を信じたことも凄いが、高齢のエリザベツが自らの妊娠を主の祝福として受け入れとこともすばらしい。女性の信仰、感情、判断のすばらしいところは、祝福、奇跡を信じ求めることにある。

 

男性は、神を信じ、信頼することもなかなか難しい。「仕事が片付いたら、退職したら、」などと、当面の責任、仕事を済ませなければ、信仰にも入ろうとしない場合が多い。男性を信仰に導くには、奇跡が一番である。女性が男性のペースに従っていたら、奇跡や祝福はもたらされない。計画やはかりごと、努力で人生は動かない。

 

 エリザベツの妊娠中、ザカリヤは考え祈った。今までの常識では考えられないことが起こっている。男性は、自分では対抗し得ないものには、従う性質をもっている。神が自分に働きかけ、使命を与えておられることを悟った。こうなると、男性は強い。慣習があろうと、親族が反対しようと、断固として、天使の指示どおりに子供の名前をヨハネと名づけた。そして、祭司職の跡継ぎにしようとせずに、子供の激しい気性と霊に委ね、支えた。

 

  これらは、サムソンの父マノアや、サムエルの父エルカナにも同様であったことがわかる。サムソンが乱暴狼藉をして支配者ペリシテ人を怒らせても、マノアは批判の側には立っていない。エルカナも、最愛の妻ハンナに生まれた子供を惜しまず、雄牛3頭、小麦粉23リットル、その他を持参して、幼子サムエルを祭司エリに預けている。

 

  私自身は献身表明をしていた女性と結婚するというには、自分が牧師にならないと神に申し訳が立たないと思っていた時に、神ご自身の語りかけがあった。クリニックの開業も、勤務医は嫌だと妻が言ったので、倒産覚悟で事務長職を引き受けて始めた。今、新しいことを神に求める祈りをしなければならないと、私のうちにあるキリストの御霊が語りかけておられる。暗黒の社会に灯火を照らす働きを始めなければならないと導かれている。

 

  献身を決心した聖書の箇所は、主によって打たれたアラムの陣営に入り込んだ四人のらい病人が、その勝利を伝えなければならないと次のように言った言葉であった。

 

「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」U列王79.

 

  自分だけ福音の喜びを味わうのではなく、人々に主の勝利を伝えなければならないのである。

 

 

12月15日 祝福を受け取る人々   ルカ書12638

[新改訳]  ルカの福音書

1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。

1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。

1:28 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。

1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。

1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」

1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

 

 聖霊なる神こそが、実際に父なる神の御心のままに働いて、世界の創造の働きをなし、今も世界を動かす働き手である。ヨハネは、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者も皆、そのとおりです。」(3・8)イエス様の語られた言葉を記録しているが、聖霊の働きを理解することは、霊的世界、信仰を知る上で非常に重要なことである。しかし、聖霊なる神は、決して自己について語らず、不可視であり、その働きは密かである。聖霊は、自らに注意を向けるようなことは決してせず、父なる神の御心とキリストの救いの働きに目を向けさせる。

 

  初代教会の指導者イグナチウスは聖霊について記している。

 

 「聖霊の恵みは、贖罪の機械的な秩序をここの魂に対していのちのある関係にする。御霊の働きがなければ、十字架はただじっと立つだけである。」

 

 聖霊は、すべてのことを教えてくださり、私たち信者を助けてくださるとイエス様は言われた(ヨハネ14章)。しかし、また世の中の人は聖霊を決して理解せず、気がつかないだろうとも言われている。

 

 ある人々は神を信じ、ある人は決して神を信ぜず、霊的なことを理解しない。私は、信仰に入った当初は、教会に来て、神を信じ、信仰生活に入ったのは、偶然が重なり、そして自分が率直であり、誠実だからであると、考えていた。ところが伝道してみて、なかなか人が神を信じないのに驚いた。こんなに明確な論理であり、神がいることは証明できるのに、なぜ神を信じないか、不思議であった。

 

  さらに、自称クリスチャンといっても、魂の救いの体験とか、みことば体験を持っていない人々が少なからず教会にいることに気がついた。そういう人々の特徴は、@性格がやさしい。A律儀である。B人の意見や考えを気にする。

 

  また、この世での能力は低く、性格は悪いのだけれど、明らかに神を信じ救われている人がいることにも気がついた。

 

  さらに、聖書体験は持っているのだけれど、いつも不満を言い、問題を起こす人々がいることもわかってきた。

 

  これらを見て、Tコリント2・14〜3・3の、@生まれながらの人、A肉に属する人、B御霊に属する人、の三種類の人々が教会にいることを覚えさせられたのであった。

 

 教会に来るということは偶然ではない。それは父なる神の御心にそって、御霊があなたに臨んでいるからである。しかし、なかなか神を信じない。神を信じたつもりになっても、神に自分の人生を委ねない。主権を明け渡さない。それこそが、罪というもの、自己中心なのに、教会に来て、人生の参考にしようとか、良い人間になろうとか、考えている。

 

  神を信じられないのならば、はっきりとその疑問を神に問えばよい。私など、「これがわからなければ信じられない。」とか、「いるなら示してください。」などいつも神に注文をつけていた。そして、二年目に復活の主を確信して死をも怖がらないようになったのである。

 

  マリヤは、婚約をしていたが、処女であったのに、天使の語り掛けにすぐに反応して、神の御心のままにどのようにもこの身をしてくださいと答えている。マリヤの同意の後、聖霊なる神は、マリヤの胎に働いていのちを生じさせた。そこには、神の子の霊が宿ったのである。

  当然、マリヤにも聖霊の働き掛けがあったのである。しかし、聖霊は決して、私たちを強引に支配しようとも、導こうともされない。神の御心を示唆するのである。私たちがそれにどのように反応するかで、私たちの人生は変わってくるのである。

 

  一度も聖霊に委ねておらず、神を自分の人生の主としてみとめていなければ、その人は生まれながらの人であり、聖書の知識はあっても、神のことは何もわからない人である。

 

  神の語りかけに一度は従って人生を委ねても、普段は決して神に毎日の人生の主導権を許さず、自分の好き勝手に生きている人は、二番目の肉に属する人である。

 

  御霊の人は、聖霊の語りかけ示唆に良く従い、聖書のことばを実践ずる人で、その行く道は試練と苦難が多いように見えても、マリヤのように祝福と栄光にとんだ人生となるのである。

 

12月22日 今は恵みの時、救いの日です。   ルカ2420

[新改訳]  ルカの福音書

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。

2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。 2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。 2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、  2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。  2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、  2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。  2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。  2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。  2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。  2:12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。

2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」

2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。

2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。 

2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 

信仰者の祝福を信じ方には幾つかのパターンがある。ある人々は、神は世界を治め、その御心にかなう者に祝福を注ぐと信じる。他の人は、神は激しく祈り求める者に祝福を注ぐと信じ、また、神は愛だから必要な時には祝福を注いでくださるのだと信じる人もいる。祝福を信ぜず、神は罰を与える怖い神だと信じる人は、まさかクリスチャンにはいないだろう。

 

  実際には、日本人には祝福を信じ続け、願い続ける人は少ないので、これらのパターン以前の問題になっているともいえる。

 

  私たちがクリスチャンと自称するからには、魂の救いを体験しているのであるが、これはどのように体験したのであったろうか。

 

@    真の神と聖書とを知り、自分の罪、罪深さを悟った。

 

A    救いを求めたが、自分にはそのための何の価値もないことを認めた。

 

B    キリストの十字架の死が自分のためであると信じ、救われた。

 

簡単に言えば、このとおりであり、魂の救いは神からの賜物、プレゼントである。

 

次に、クリスチャンとしての成長はいかなるものであろうか。

 

@    洗礼を受け、礼拝を守り、献金や奉仕をする。

 

A    聖書を読み、祈り、生活習慣と品性にて、救いの成果を実らす。

 

B    人を助けとりなし、伝道をして愛を実行する。

 

 これは、果たして義務なのだろうか。法律を守り、働いて、税金を納め、社会人としての義務を果たし、家庭を形成するのと同じようなものなのだろうか。なにげなく、行なっている信仰者としての日々の生活、これは、義務として、或いは宗教的な慣習として行なっているのだろうか。

 

  実は、これらも神からの賜物なのである。神を信じるのも、自分の決心の結果であると考える人がいるが、神を信じるという簡単なことでさえ、意思が強かろうが、能力があろうが、できないことなのである。そして、その後の、平凡な信仰生活も、神の助けなしにはできないことなのである。「成長させたのは神です。」(Tコリント3:6)

 

  宅配便で荷物が届く。私たちは、不在であれば、受け取れない。応対しなくてもだめだし、ハンコかサインも必要である。

 

  神からのプレゼントも、受け取る気が無ければ受け取れない。クリスチャンとしての成長を、皆さんは、神からのすばらしいプレゼントであると知っているのだろうか。

 

ヨセフもマリヤも、神から与えられた使命を果たした。それは、試練と苦難を伴うものであったが、すばらしいプレゼントであった。

 

 信仰を持つ、信じるということが、神からのプレゼントを受け取る大事な要素である。我が家では、子供たちに年間洋服代に使ってよい金額を定めている。十二月になるとその権利をすべて利用しようとして、買い物を選び、楽しんでいる。誕生日のプレゼントも、金額が定めてあって、その希望を自分でだせる。あれこれと考え、親に願うのである。

 

  信仰生活は、犠牲でも義務でも労苦でもない。父なる神、子なるキリスト、助け主なる聖霊と共に過ごし、信仰の家族である教会の人々と過ごす喜びと平安な生活である。神と共に過ごすならば、あなたは神が、本当にすばらしい方であって、私たちに祝福を注ごうとしておられることにきがつくのである。

 

  クリスマスのプレゼント、そしてパーティーは、この神からのプレゼントである祝福された生活のしるしなのである。

 

  神からのプレゼントは、毎日贈られてくる。それは、今日のあなたにもっともふさわしいものなのである。一度受け取り損ねたら、二度と送られてくることはない。それは、明日のあなたには不必要なものだからである。過去の失敗、不信仰にこだわる必要はない。今もあなたに贈られる、今のあなたに必要なプレゼントをしっかりと受け取って欲しい。

 

  祝福された人生は、神からの賜物。それは今から始まる。

 

12月29日 待ち望め主を!   ローマ81827

[新改訳]  ローマ人への手紙

8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

 

クリスマスも過ぎ、冬至も過ぎて、いよいよ新年となり、春となります。実際はこれからが本格的な冬なのに、新年というだけで新しい希望がわいてくるのだから不思議です。年という節目がなかったら、何かやり直せないような陰気な思いになっているかもしれません。我が家の庭のイルミネーションも消しました。クリスマスを待ち望む思いで輝かせていたのですが、もう実現したという気がすると、イルミネーションも色あせたもののような気がしてくるのです。

 

 聖書は、地球全体が虚無、滅びの束縛の中にいて、解放され、栄光の自由のなかに入るのを待ち望んでいると書いています。クリスチャンになったのは、自分の滅び、罪に苦しみ、心の中でうめきながら、救われることを望んだからです。

 

 それでも、人は自分やその在り方を肯定し、言い訳を持ちながら、罪と欲望の中に過ごそうとします。でも、この26節には、私たち一度神を信じて救われ、聖霊なる神を受け入れた者は、内在するこの御霊が、私たちのために、私たちの祈りの中で私たちのために、とりなしをしてくださると説明している。私たちは、自分のことを実はよくわからないのです。罪深く、束縛されている過去の自分に捉われて、神の計画、御心の中にある私たちの本来の姿を知らないのです。

 

 お祈りこそ、そのような神の愛とその中で作り出される私たちの姿を信じさせ、教えてくださる大事な、神との会話なのです。

 

 他の人と会話をあまりしない人が増えています。愛されなかったのでしょうか、傷つけられたのでしょうか。失敗をしてしまって失望したのでしょうか。でも、まず、神様との会話をしてみてください。そうすると希望がわいてきます。思い煩いがなくなり、喜びと平安、力が与えられます。あなたは神の目には高価で尊いのです。