6月2日

  異なる福音を宣べ伝える人々   Uコリント1116

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

11:1 私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。いや、あなたがたはこらえているのです。

11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。

11:3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

11:4 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。

11:5 私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。

11:6 たとい、話は巧みでないにしても、知識についてはそうではありません。私たちは、すべての点で、いろいろなばあいに、そのことをあなたがたに示して来ました。

若者たちの関心はいつの世にも異性であり、裕福になることであろう。「好きだ、愛してる」などという言葉が、テレビや映画や雑誌に飛び交っている。それは、エロスの愛であって、肉欲の愛、自己中心の愛である。そんな愛で結婚しても、自己中心がぶつかり合い、肉欲は他の欲望に向いて、すぐに別れることになる。

  日本でも同様であるが、イスラエルでも当時は娘の結婚は父親によって決められていた。それで、パウロはコリントの教会のクリスチャンをキリストの花嫁として定めるという例えを語り、その幸せを父親のように願っていたと語るのである。ところが、エバが蛇によってだまされたように、コリントの教会も偽使徒によってだまされてしまった。

  エバはなぜ騙されたのか。

1. 神の言葉をあいまいに理解していたからである。

2.  誘惑者の声に耳を傾けてしまった。

3. 神の愛、真実さを疑ってしまった。

4. 欲望に負けた。

5. 皆でやれば同罪と仲間を引き込んだ。

 

  説教を聴いたり、聖書を読んで感動しても2,3時間もすると全く忘れてしまう人が多い。食べ物を反芻する動物は聖いとされる。反芻とは、「一度飲み込んだ食物をまた口の中へもどして、かむこと。」であり、それから引用して「物事を繰り返して考え、味わうこと。」という意味にもなっている。単語の暗記も何十回も繰り返して覚えたことがあるだろう。そうすると、考えなくても、その単語の意味は自然と出てくる。アメリカ人に「あの人すごい、英語を話している。」と驚いた子供がいたというが、私たちも難解な日本語を自由に駆使している。それは繰り返して見聞きし話しているからである。イスラエル人は、モーセ五書を成人になるまでに覚えたというから、神の言葉への忠実さが沁みこんでいるだろう。私たちの週報は聖句まで書いてあるのだから、一度だけでなく、その週にうちには毎日読み返し、みことばを唱えて欲しいものである。

  現代社会に誘惑は多い。感化を受けやすい子供の環境に暴力やポルノの情報を提供しておいて、自分の判断に任せるのは、児童虐待である。テレビを見ないように子供に言いながら、自分は見ているのでは、教育はできない。聖書を読む以上に、テレビや新聞、書籍を読んでいて、霊的な成長を健全に遂げることは難しい。

  自己中心の世界に生きると、真実な愛を体験することは難しく、些細なことに囚われ、一喜一憂して過ごすことが多い。また、そんな中で他の人も自分と同様に不安定で罪深いと安心したりする。

  コリントの教会は、偽教師、偽使徒が来ても、反対せず、なすがままにさせていた。日本社会は何でも穏当に済ませようとすることが多く、クリスチャンならばなおのこと、間違いなどは指摘するべきではない、という人々が多い。でも、それはイエス様の教えよりも、この世の教え、判断を大事にしているからである。イエス様は、いつでもパリサイ人や律法学者を真っ向から批判し、攻撃していた。真実に生きるためには、悪や偽りと戦わなければならない。

  私は今が終末であると実感している。教会にはコリントの教会と同じように尤もらしい偽の教えが入り込んでいる。牧師も名を成そうとしたり、学位や地位を欲しがっている。信者は、十字架を負い、家族からも敵視されることを拒み、ただ軋轢のない、評判の良い善良な信仰者として生きることを望んでいる。イエス様を見ないで世の中のことをいつも考えている。聖書を読まないで、テレビをみて明け暮れている。

  小泉首相の化けの皮ははがれ、有事立法だけでなく、核配備も可、などというようになり、マスコミや個人情報も統制されつつある。恐ろしい世の中になるだろう。私たちは偽りを見抜く目を持ち、悪に惑わされることなく、真実に生きるために、決死の戦いをしなければならなくなってきている。

6月9日 

光の御使いに変身するサタ   Uコリント11718

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

11:7 それとも、あなたがたを高めるために、自分を低くして報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことが、私の罪だったのでしょうか。

11:8 私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。

11:9 あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニヤから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたのです。私は、万事につけあなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。

11:10 私にあるキリストの真実にかけて言います。アカヤ地方で私のこの誇りが封じられることは決してありません。

11:11 なぜでしょう。私があなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存じです。

11:12 しかし、私は、今していることを今後も、し続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇るところがあるとみなされる機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切ってしまうためです。

11:13 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。

11:14 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

11:15 ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。

11:16 くり返して言いますが、だれも、私を愚かと思ってはなりません。しかし、もしそう思うなら、私を愚か者扱いにしなさい。私も少し誇ってみせます。

11:17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。

11:18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。

 最近は、学校に行かなくなったり、退学したり、仕事をすぐやめたり、更には新婚旅行から帰ると離婚したりするケースがあるようである。私自身は、それもしょうがないことを思っている。社会経験も経ず、コミュニケーションもとることが下手で、本やテレビで受け売りの情報を自分で吟味・経験をせずに受け取ってしまっているのだから、無理もないかと思う。

 むしろ問題は、それを肯定し子供(成人であっても)に社会経験をつませない親や祖父母である。熱があると休めと言う。教師や上司の批判や学校や会社の愚痴を子供が言うとそのまま受け入れてしまい、一緒になって批判したり、辞めろと言ったりする。

  医者や教育家もストレスのある生活をしないようにとアドバイスをする。ストレスのない人生は喜びのない人生でもあろう。過重なストレスが長く続くことは避けたほうが良いかもしれない。しかし、神は

「試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Tコリント10:13)

と守ってくださるのに、多くの人が耐えられる楽な試練をも逃れようとして、十字架を負ってイエス様に従うどころか、「滅びに至る大きな門」(マタイ7:13)ばかりを通ろうとしている。

  これらのことは社会では当然のこととして扱われ、頭のよさ、要領のよさが成功の鍵のように言われている。実際には、そのような人間が他の人に信頼され受け入れられるはずもなく、学校、会社、結婚で問題を起こすこととなる。

  実は、そのような人間の欲求不満、ストレスのはけ口が宗教となる場合が多いのである。神様にさえ一生懸命になれば、他の人を差し置いて幸せになれるというのならば、それこそ、しっぺ返しであり、大逆転である。そのような経緯で昔から、日本では、「宗教を信じる者は意思が弱い。」とか、常識はずれ、自分勝手、などといわれてきたのである。

  その点で、キリスト教は、ヤソ教であり、貧乏宗教、清貧な宗教、などと言われてきたので、逃げ場となるにはお門違いな宗教であった。ところが、最近の洋風な風潮の中で、キリスト教も迫害されることも少なくなり、なかなか居心地のよい宗教になってきた。

 コリントは裕福であり、偶像の町であり、歓楽街でもあり道徳的にも退廃していた。パウロはこのような町から経済的な見返りを求めるのを危険であると判断した。ピリピなどのマケドニヤの教会は貧しかったが、そのような安逸をむさぼるようなところがないので、支援を仰ぎ、裕福なコリントへの伝道にも助けられた(8,9節)。

  しかし、それでも試練や苦労と厭い、打算に流れるコリントの教会には、偽の教え、指導者が入り込みやすかったのである。何度も言っているように、コリントは現代日本とよく似ている。

  アメリカ・アッセンブリーの平均礼拝出席は五十名程度であると何度も聞いている。数千人から一万人以上の教会があるのに、殆どの教会は小さいという。アメリカ・アッセンブリーの健全さのバロメーターであろう。最近は劇場のように演劇をしたり、見世物をしたり、巧みな話をする教会が多く、信者に十字架を負って生きろとか、救いを証ししろとか、教会で奉仕をしろ、ということが言われず、みな金で済まそうとする。献金額の多い人が役員をすることも普通だそうである。アメリカでは献金は税控除されるから、要するに所得の多い人ということになる。

  パウロは「話は巧みではなかった」(6節)が、にせ教師は巧みに自慢話をし、「義のしもべ」に装った(15節)。

  「神は愛だから」などといって、教会をロマンチックでストレスのない社交場に変えようとする人々がいる。彼らは、優しいイエス様の話を求め、クリスチャンの勝利と祝福を信じる。牧師の指導や律法的な話を拒み、地位や名誉、牧師との会話や賞賛を求める。

  聖書の話を聞くだけの形式的クリスチャンになることこそ、サタンの願いである。かれらは、もうサタンの虜であり、手先であって、犠牲や苦しみを教会が強いると真っ先になって反対し、宣教を形骸化するからである。十字架を負う試練を避けるようになったら、クリスチャンとしての堕落の始まりである。祈らなければ、試練に乗り切れない。霊の戦いにおびえてしまう。サタンによって惑わされてはいけない。

 

6月16日 たび重なる試練を経   Uコリント111925

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

11:19 あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。

11:20 事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。

11:21 言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、・・私は愚かになって言いますが、・・私もあえて誇りましょう。

11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。

11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。

11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、

11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

試練には、いくつかの理由・原因があるだろう。

1.自分の不注意、落ち度、失敗、罪による試練。

2.周囲の者のそれらによる試練。

3.対立する者、或いは悪人による試練。

4.天災、偶発的原因。

実際には、それらの原因の複合によるものが多いだろう。

 日本社会は、1の自分を原因とする諸問題が起こることを警戒し、戒める。私の父は「盗まれる者も悪い」と言って、不注意を戒めたが、盗まれて気持ちが沈んでいる時に、そのようなことを言われるとがっかりする。実際には、我が家には泥棒が数回忍び込んでいたが、金目の物のない当時の我が家(釘に金輪を掛けるだけの戸締り)だから、盗まれる物もなかった。自分の落ち度に関しては、すぐ正当化をしながら、他人の落ち度を許せない人が日本には多い。農耕社会の連帯責任性や江戸時代の封建制、宗門改め、などが根底にあり、軍隊教育が影響を与えてもいる。

  ともかく、過失を戒める風潮は、弱い者いじめにもつながり、逆に犯罪者、悪人の正当化、温床にもなっている。欧米だけでなく、外国では事故や犯罪、失敗はかならず起こりうるとみなされ、そのための備えがされる。

  日本では、クリスチャンにも試練があると、未熟だから、罪深いから、訓練のため、などと、あたかも自分に問題があるようにみなされるので、自らの試練や弱さを隠そうとする傾向がある。まるで、神様が意地悪爺さんのようで、信仰の未熟な者を探し出し、鍛えさせられるようで、「触らぬ神に祟りなし」というような姿勢である。これらは人生観が、神を知らない時代と変わらないからであって、「人と仲良く暮らして不幸がなく、のんびりと暮らせればよい」などというものだからである。

  聖書の世界観は、戦いである。サタンとの戦い、悪との戦い、罪との戦い、である。祈らなければ、霊的な戦いの敗残者になり、悩みや恐れ、失望、イライラ、自己嫌悪が自分を襲い、打ちのめされることを指摘する。戦いに備える者は、自己訓練をする。攻撃にいつも備え、注意を怠らない。攻撃されることはある。しかし、勝てばよい。サッカーでも、相手以上に点を取れば価値なのである。点を取られまいとするのではなく、過失がないように警戒するのでもない。それではいつまでたっても勝てない。

大事なことは勝利の希望を持つということである。「あなたがたも賞を受けられるように走りなさい。・・・私は自分の身体を打ちたたいて従わせます。」(Tコリント9章)信仰生活は戦いであり、報いのあるものである。

  自分の試練の原因を追究したり、自分の未熟さを改めようとして一生懸命な人がいる。自分を見つめていたら、戦いはできない。敵をはっきり見定め、味方の指導者に従って自分を守り、相手を攻撃すればよいのである。内輪もめしたら、敵にすぐに攻め込まれてしまう。

  パウロは、戦った。攻撃された。「パウロを殺すまでは何も食べない」と、誓い合う者が40人以上いたというからすごい(使徒23:14)。39度の鞭というのは、これ以上鞭打つと死んでしまうという理由で、律法で禁止されていたものであるが、これも5度あるという。石で打たれ、仮死状態になったこともあった(使徒14:19)。ところがこのとき、仮死状態になって、霊が分離し天国をパウロは体験した。それがこの12章に書かれているのである。ともかく、殺されかかっても、パウロは不屈の精神で伝道に邁進したのである。

 
あなたには、魂を救ってくださった神の愛に報いたいという願いはあるだろうか。サッカーの日本代表に選ばれた選手は、命がけで走り回った。そして勝利して私たちに感動を与えた。あなたを選んでくださった神の恵みに答えて、人生を走り回ろうとする感動は、あなたの心のうちにあるだろうか。

6月23日 試練を切り開く根性を持つ   Uコリント112333

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。

11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、

11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、

11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。

11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

11:30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。

11:31 主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。

11:32 ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕えようとしてダマスコの町を監視しました。

11:33 そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。

家庭教師の勧誘が毎日何回もある。私は、家庭教師は子供をだめにすると考えている。私の発想は、いつも変わっているので、それが正しいと主張するわけではないが、それは以下の理由による。

  コンピューターも最近はフォローアップが充実している。そしてマニュアルも詳細である。ところが実際には電話で問い合わせるとなかなか繫がらず、繫がってもアドバイスが要領を得ず、適切でない。ひどい場合にはつっけんどんに怒られたりする。要するに指導と教育が徹底していないので、教える側がわからないのである。結局、自分でマニュアルを詳細に読んで試行錯誤で解決することになる。

  弓山師が「神学しなさい。」とよく言われた。神について信仰について、葛藤しながら学び、生きることが神学であって、学問や書物に書かれた物は、その結果であって、本に頼ると神ご自身に対する真摯な探究心を失ってしまうと言われたのである。

  マニュアルをきちんと読むと、その解決の論理がわかり、次の疑問を解決できる。ところが、言われたことをそのまま行うだけでは、成長がない。コンピュータでもそうであるが、学問というものも、自ら学ぶ姿勢がないと暗記物になってしまい、人格の発展がない。

  テレビで駄目亭主や女房が放映されていたが、彼らは問題に直面しようとしない。ただ逃げて好きなように暮らしたいだけである。間違いなく生活は破綻し、夫婦関係もうまくいかなくなるだろう。

  そういうわけで、短絡的かもしれないが、何でもすぐに教えてくれる家庭教師は、せっかくの難題や問題を自分の力で解決する力、それが教育の価値だと思うが、それを損なってしまうと考えるのである。天才を伸ばすためとか、学習障害を治すためなどには個人教授は必要であり、幼児教育などにも好ましいと考えるが、青年期のそれは、成長の障害になると判断するのである。人生は本を読んだり学習するためのものではない。多くの難関、試練が待ち受けている。いつも親切にアドバイスされていると、生きる力を失ってしまうような気がする。

  私は殆ど自分の力と判断で生きてきた。勉強などまともにしたことのない家庭で、どのように学ぶか誰もアドバイスをしてくれなかった。音楽もスポーツも教養も、志望校もその手続きも、生活の準備も、金銭もすべて自分で学び、用意してきた。困難も問題も試練も、当然のごとく

次々に起こってきた。結婚してからは、自分だけでなく、妻や子供の問題や困難を処理してきた。困難に腹が立ち、落胆したことはあるが、一度も逃げたり、誤魔化したことはない。

  神を信じる前は、自分の努力が虚しいものになるのかという不安があったが、まことの神を知ってからは、「誠は神に知られている」という意識が、いつもあり、困難や人の裏切り、攻撃、非難にも動じることはなかった。むしろ、人を非難する傲慢、自己の罪に気がつかない強情さを自ら警戒した。

  そのような強さは、他人には非難された。「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」神を信じないで、自分の弱さを見ると、自分の不信仰や怠慢に対する正当化や言い訳が始まり、神に忠実な人を非難する。私は月収が三万円の時から忠実に十一献金を行い、この二十七年間一度も礼拝を休んだことはなく、誰よりも教会の奉仕をしている。しかし、自分以上の奉仕や献身を、他人に要求したことはなく、非難され、攻撃されても、呪ったことも逃げたこともない。教会員が去り、奉仕や献金をしなくなっても、それを補い、損失を補填してきた。

  経済的に破綻をきたす事は何度もあり、ヤクザに脅されることも、精神病者に執拗に攻撃されることも、暴力を振るわれることも、地域の人から攻撃され家に怒鳴り込んでこられることも、金銭を騙されることも、教会をかき回され何度も信者を連れて行かれることもあった。全身蕁麻疹になり腫れ上がったり、不整脈で身体が動かなくなったり、痛風で口を開けることも出来ないのに説教したり、二十一日間の断食をしたり、うめくような痛みの中で何事もないように説教を続けてきた。

  神は私を祝福し、家庭は幸せになり、収入も増え、財産も持つようになった。しかし、日々の重荷、仕事は増える一方であり、痛風ばかりでなく、リューマチも病むようになった。涙の祈り、人の弱さに嘆くことは数限りないが、いつしか心も強くなり、試練にも動じなくなった。

  牧会が大変だ、ひどい教会員がいる、理解されない、などと若い牧師が嘆くことがある。キリスト教の信仰生活とは、イエス様の後を追って、十字架を担いでいくことである。それによって、一人でも魂が救われればよい。大事なことは、十字架を担がなければ、主の平安はないということである。

6月30日 パラダイスを体験し   Uコリント1216

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

12:1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。

12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・第三の天にまで引き上げられました。

12:3 私はこの人が、・・それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。・・

12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

12:5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

12:6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。

この箇所はおそらく、使徒十四章十九節のルステラで石打に遭った時のことであると思われる。パウロは伝道をして迫害に遭い、確かに死んだ。石を投げた人々がパウロの遺体を町の外に引きずり出したのだから間違いはない。ところが、パウロは生き返り、すくっと立ち上がって町に戻って行った。

  私も死に掛けて神によって癒されたことが二度あるが、神癒はパット完全に癒され、跡を引かないものである。病気の治りというものは、少しずつ治ってくるものであり、ダメージや傷が残る。しかし、神の為されることは、瞬時にして跡を残さない。

  心の痛みや悲しみ、罪責感もカウンセリングや考え方を変えるなどといった人間的な手法では少しずつ消えていき、それでも傷が残るものであるが、魂の救いは瞬時にそれらのダメージや葛藤がなくなってしまう。救いというものは、過去の罪をないものと神がしてくださることである。それは、消しゴムで消すようなことではなく、また書類を処分することでもなく、すでにその件に関して処分は済んでおり、あなたは罰せられないということが、過去のすべてに関して適用されるということである。

  たとえ百億円の借金があったとしても既に返済されているならば恐れることはない。しかし、返済されていることを知らない、或いは信じないならば、恐れの生活は続くだろう。私が肩代わりしたというならば、誰も信じないだろう。しかし、世界一の金持ちが、あなたの父親であり、代わりに払ってくれたというならば、信じるだろう。それでも、父親であることが間違いがないことが明らかにならないと不安かもしれない。

  神を信じるということは、自分の側の信心の強弱に関わる問題ではないことを理解しなければならない。「いわしの頭も信心次第」という信仰では、信ずる本人の信仰力によって、物事に対応する出方が変わってくるだろう。多くのクリスチャンが、そのように自分の信仰の弱さを問題にし、恥じている。実際には、あなたが信じようとしまいと、神の全能と御性質には代わりがない。十字架による罪の赦しがそれを受け取る者に与えられると神ご自身が言われるならば、それはあなたの能力、品性、正しさに拘らず、間違いのないことであって、それを受け入れ、信じて生きるかどうかが私たちの問題となるのである。

  日本人は贈り物をただで受け取ることを恥じる。でも、罪の代価は死であり(ローマ6:23)、救われるために値するものを何も人間は持ち合わせていない。でも、私はむしろ、多くの人が赦しの価値の大きさに気がついていないように思われる。

  一度目の死に掛けた時は、神の大能に驚き、自らの罪深さに恥じた。二度目に死に掛けた時は、あくせくした人間の勝手な努力、信仰を飾り物とし神に御心を求めない自分を悔い改めた。自分の成功を願い権勢を得ようとする愚かさを思い知らされた。

  パウロは死に掛けて癒されたのではなく、死んでしまい、霊魂が天の神の御国に入ったが、まだ生きて為すべき使命が残っているので、追い返され、生き返った。要するに、「もっと苦労してから死ね」ということである。ピリピ一章には、生きることも死ぬことも同じであると書いてある。ローマ六章には、罪に対して死んだと思い、キリストを信じる新しい歩みをしなさいと書いてある。

  自分の働き、人生が報われる、報われない、などと考えているのは、罪に対して死んではいない。でも、キリストにあって新しい歩み、いのちの歩みをしていないのは、この世にあってもキリストにあっても死んだ者である。

  パウロは天国を体験した。そこは、まさにパラダイスであった。自分がそこにいくことができるならば、地上での苦労は何でもないと悟った。「自分の弱さ以外には誇りません。」とは、自分を誇ると聖霊の満たしから離れることに気がついたからである。自慢をし、自分の成果を追い求める人々が神から離れ、単に信仰競争をしているだけなのに気がついたのである。

  「主を待ち望む者は新しく力を得る」とイザヤ四十章三十一節にあるが、それに比較した堕落する者は、私は神に見過ごされていると愚痴を言う人々であることを忘れてはならない。信仰者に停滞はない。天に凱旋するまで、走ってもたゆまず、歩いても疲れないで生きていこう。