4月7日

祝福によって生きる  Uコリント8915

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

8:10 この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それはあなたがたの益になることだからです。あなたがたは、このことを昨年から、他に先んじて行なっただけでなく、このことを他に先んじて願った人たちです。

8:11 ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。

8:12 もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。

8:13 私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。

8:14 今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。

8:15 「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。

 

「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10:22)という聖句を私は大事にしている。「働くことが好きだ。」とか、休むことのできない人が日本人に多いが、これは極めて異例であると思う。人生の生きがいを働くこと自体におくということは、その人の人生を浅薄なものにし、他人との交流のない自己満足なものにするだろう。

「主の祝福」とは、どんなものであり、どのようにしたら獲得できるのだろうか。

出エジプト記十六章には、マナが毎朝与えられたことが記されている。「多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。」と書いてある。ところが、「朝まで残してはならない」、と言われたのに、ある者は残しておいた。すると、虫がわき、悪臭を放ったそうである。しかしながら、安息日の前日は、2日分とっても臭くもならず蛆もわかなかったのである。

イエス様も言っておられるが、人はパンだけで生きるものではない。申命記8章には、荒野の40年間の意味が記されている。イスラエルの人々は、労働によって対価を得たのではない。毎日ただで、拾うだけで食事が与えられたのである。これは、男性には耐え難い屈辱かもしれない。彼らは自分の労働の成果を得られず、他の人とその能力を競うこともできなかったからである。彼らのするべきことは、神を礼拝し、家族を統率して信仰者として育て上げることであった。自己実現欲求というものが最も高度な欲求として定義されるというマズローの学説があるが、男性はその労働と成果によって、自己を確認し、生きがいを見出すものである。女性は、自分を必要とするものがいるという確認が生きがいであるとも言われていたが、最近は男性化が進んでいるのでなんともいえない。

申命記には、それが神の目論見であり、そのようにしてこそ、各人の心がはっきりと表れてくると指摘する。

人生は思い通りにならないものである。挫折もあれば失敗もある。思い通りになっている人ほど傍若無人で勝手な人である。自分の働きの成果が現れないときこそ、その人の内なるものが現れ、真価が問われるのである。

「成功した牧師、神に用いられている伝道者」などという言葉や評価を聞くと、なにを馬鹿なことを言っているのかと腹が立つことがある。牧師が神に献身したものであるならば、牧師に成功不成功はない。私たちは忠実に神に従い、仕えたかどうかが問われるのであって、神についたものに所有権はなく、自己の権利を主張することは放棄したものなのである。

 そして牧師だけでなく、クリスチャンも他の人々も、実はその持てる物、能力、地位、働きは、その人の真価を表すためのものでしかないのである。「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」(ルカ12:48)また、あまり与えられていない、自分の能力は低いとすねると、「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」(マタイ25:29)ということにもなり、大事なことは忠実さであることがわかり、神とともに喜びの中に入ることが重要なのである。そうすると私なりに重要なことを列挙したい。

1. 働きすぎてはいけない。

安息日(働かない日)を守り、神や人と喜びの日を過ごす。

2. 財産を使わないでためてはいけない。

家には人を招き、自分だけを喜ばすものを持たず、金銭を貯めこまない。与えられた物は他の人にも与える。

3. けちであってはならない。

食事は食糧の補給ではない。家族の団欒、憩いをもつ。たまには外食をして食事と交流を楽しむ。借金の返済に人生の焦点を当ててはならない。財産の購入の借金であっても、事業の負債であっても、普通に働いていればいつかは返せる。楽しさと憩いのない家庭では却って浪費をし、借金が増える。

4. 誘惑に負けない。

自分を主張したり、自慢したがる人は罠と誘惑に陥る。遊びすぎると費用の確保のために過重な労働を余儀なくされる。働きすぎると短命になり、人生の喜びを味わえない。自己主張が強いと無理が出て、人ともうまくいかなくなる。

5. 神を畏れ、戒めを守る。

悪に加担せず、ごまかさない。人を恐れず、正しいことを断固としておこなう。

 

4月14日

 

動機や信念が純粋であっても  Uコリント81624

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

8:16 私があなたがたのことを思うのと同じ熱心を、テトスの心にも与えてくださった神に感謝します。

8:17 彼は私の勧めを受け入れ、非常な熱意をもって、自分から進んであなたがたのところに行こうとしています。

8:18 また私たちは、テトスといっしょに、ひとりの兄弟を送ります。この人は、福音の働きによって、すべての教会で称賛されていますが、

8:19 そればかりでなく、彼は、この恵みのわざに携わっている私たちに同伴するよう諸教会の任命を受けたのです。私たちがこの働きをしているのは、主ご自身の栄光のため、また、私たちの誠意を示すためにほかなりません。

8:20 私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも非難されることがないように心がけています。

8:21 それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考えているからです。

8:22 また、彼らといっしょに、もうひとりの兄弟を送ります。私たちはこの兄弟が多くのことについて熱心であることを、しばしば認めることができました。彼は今、あなたがたに深い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。

8:23 テトスについて言えば、彼は私の仲間で、あなたがたの間での私の同労者です。兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者、キリストの栄光です。

8:24 ですから、あなたがたの愛と、私たちがあなたがたを誇りとしている証拠とを、諸教会の前で、彼らに示してほしいのです。

 

政治家の無責任が露呈したが、銀行員も同様であることが暴露された。「末は博士か大臣か。」などと将来を嘱望されていたのは昔で、今や子供たちはテレビに取り上げられる歌手やアナウンサー、サッカーや野球の選手、コンピューター・プログラマーにあこがれている。会社勤めが多くなったので、子供たちは職業というものの現実がわからなくなっているのではないか。

  私の父は、職人用の草履の製造販売で、自転車の古タイヤをリヤカーで購入してきて、その端を切り落とし、タワシで洗ってから、反対側に巻き、長時間蒸してその反りの癖をなくし乾かしてから草履の型に切り抜き、手作りの鼻緒をつけ、藁草履を付けて縫うのであった。収入が足りないので金属古物を選別して手間を稼いでいた。大した収入もなかっただろうが、農家の人が定期的に来て、胡瓜やナスを何百も買い、子供たちにたらふく食べさせていた。近所の人々を含めいつも出入りがあって、お茶の時間を楽しんでいた。それは、平凡で幸せな生活であり、私の人生観の基礎を形成している。ところが、兄弟たちも大きくなり、社会に出て行って、荒波に揉まれ、苛立ちや悲哀を体験するようになっていった。

  父は東京で下駄屋を経営していたが、前橋に移り工場勤務も経験したそうであるが、部下のミスの責任を取って辞職したという。父を恩人とする人が入れ替わり現れるのを不思議に思っていた。勤め仕事で使われる兄姉の愚痴や苦労を見ながら、私は人に使われず、世に貢献する仕事を求めて勉学を志したのであった。

  たとえ牧師として献身し、全力を尽くし、利得を求めなくても、ミスがないとは言い切れない。牧師給をあまり払っていないからといって、教会員が遠慮したり、意見を言えなかったら、教会は不健全になる。牧師が聖職者だから、信者は黙ってその指導を受ければ良いなどという教会は、神の名を借りた教祖信仰であり、聖書の教えと隔離している。牧師を非難する信者は、信仰の堕落であり、神の裁きを受ける、などと指導するのは恐ろしい専制である。

  パウロは非難された。「献金こそ信仰のバロメーターであり、惜しみなく献げる者に、神は報いてくださる」、と強調すると、「パウロは教会から奪い取って給与にしている」(11:8)、などといつも非難(8:20)された。そこで、「主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考え」、自分は献金を管理せず、信頼されているテトスや教会代表の二人に金銭を任せた。

  反対意見を言われることを拒んではならない。思い通りに仕事が進まないことを嫌がってはならない。それを受け入れ、考えや行動、計画を変えることこそ、健全であり、他の人を受け入れる融通性にこそ、主の御心が現れる。パウロは、妻も持たず天幕作りをして収入を得ているのに、「献金の強調は、そこから利益を得ているからだ」と濡れ衣を着せられた。それでも、パウロは人を誤解によって躓かせることを恐れ、「主ご自身の栄光のため、また、私たちの誠意を示すために」、すべての注意を払った。

  社会的責任を払うことを忘れ、怠った社長や責任者が、無過失を主張している。「社長になったばかりなので」とみずほ銀行の社長が責任転嫁をし、大臣も着任以前のことは責任を取れないと、放言をしている。

  牧師であるということは、多様な信者の罪深さ、過失をその教会の負うべき重荷、課題として受け入れ、そこに神がどのように働いて益としてくださるかを御言葉を通して提示し、神の恵みの中に引き入れることである。同様に社長、責任者、家長というものは、その構成員の罪深さ過失をその組織の現実として受け入れ、それをどのように長所能力として開発するかを担うのである。トヨタの社風の特徴として、社長が「改善」を取り上げていた。失敗したものを放棄することなく、改善することに力を注ぐという。成功した者はエジソンのように失敗を原動力としている。「失敗したのは、自分の責任ではない」ということは、せっかくの失敗経験を無駄にしている。

  パウロは疑い深い信者の非難を、健全な教会形成の肥やしにしている。完全な人間はいない。それであるなら、動機や信念が純粋であることはありえない。私たちの計画や考え、行動が過ちのないはずがない。それをまっすぐ指摘する自分とは違う観点を持った人物を排除、敵視するならば、健全な人格形成、人生設計をそこなうことになる。

  父のことを話したのは、父が決して愚痴をいうことなく、人を非難することなく、自らの生活を過ごした稀有な人であったことを尊敬するからである。平凡な人生を嫌ってはならない。しかし、失敗や敗北、過失、恥、罪を隠し、忘れようとする人生は、イエス・キリストの恵みをすべて無意味にしてしまう。Uコリント12:9,10

 

4月21日

 豊かに蒔く者は豊かに刈り取る。  Uコリント9章18

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

9:1 聖徒たちのためのこの奉仕については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はないでしょう。

9:2 私はあなたがたの熱意を知り、それについて、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年から準備が進められていると言ったのです。こうして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させました。

9:3 私が兄弟たちを送ることにしたのは、このばあい、私たちがあなたがたについて誇ったことがむだにならず、私が言っていたとおりに準備していてもらうためです。

9:4 そうでないと、もしマケドニヤの人が私といっしょに行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。

9:5 そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。

9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

 

 日本人は人から物を貰うことをあまり喜ばない。自分で働いてその努力や収入から得ることを選ぶ。先日もある婦人がおかずを買ってきて皆に分けているのを負担に思って辞退したがっているのを見た。なぜ、人から物を貰うのを避けようとするのだろうか。

@.人に貰ったに世話になったりするのが嫌いである。

A.お返しを考えると負担である。

B.貰うに値するようなことを相手にしていない。

C.それほど親しくない。

いずれにせよ、頑迷でつまらない民族である。冠婚葬祭のやり取りの誇大化は、その典型であろう。

  先週は大使徒パウロが天幕つくりをしていたことを語った。パウロはそれを決して価値のないこととは思っていなかったと思う。人生は効率ではないと語った。しかし、人々が実際に献金を惜しんでパウロの打算を疑ったのは事実である。献金をしないことと、人から物を貰いたがらないこととは本質的に似ている。罪びとは自分の功績によって生きたがるのである。そのような人は、物をあげるのも打算が多い。恩着せがましい人から、卑屈になってまで物を貰いたくはないものである。

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ルカ6:38

 この前には「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。」「自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。」

  与えられることを喜ぼう。

素直にありがとうと言おう。人は自分だけの力では生きていけない。お返しなど考えないで心からお礼を言うことが本当の返礼である。特にクリスチャンの間ではこれを実行しよう。ウイチタでゲストとして所長の家に泊めてもらい、初対面のボードメンバーからゴルフを招待されたのは本当にうれしかった。

  与える喜びを体験しよう。

「豚に真珠をあげてはいけない。」(マタイ7:6)とあるから相手を選んで、その価値のある人に惜しみなく与えよう。第一に伴侶、第二に子供。この価値に気がつかない人は人生の損失である。

  価値ある人生を生きよう。

神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と見ておられる。自分の人生をつまらないものにしてはならない。あなたは与えられる価値のある者であり、また、与える価値のある人に気がついて喜びの交流をしようではないか。

  

  またあなたは教会の働き、魂の救いをどれだけ価値のあるものと見ているのだろうか。人が罪赦され、救いを体験するということは、すごいことである。私も家内もこの救いのすばらしさに感動し、人生を伝道の働きに献身することを決心した。そして数千万円を献金して来た。しかし、主は「少しだけ蒔く者は少しだけ刈り取り、豊かに蒔く物は豊かに刈り取る」(6節)とあるように多くの実りに満たしてくださっている。今年はさらに献金を多く増やしている。

  長男が慶応を留年したが、その責任を取って20万円を持ってきた。いらないと言ったが、これは自分の気持ちだと言って、受け取らされた。これだけで、わたしは留年とその費用に見合う学びをしたと私は思った。喜びと価値のない人生を長年過ごしながら、その損失に気がつかない人が多い。

  種を蒔くということは、犠牲を惜しんだら出来ない。兄弟、姉妹と教会で呼び合っていながら、その価値に気がつかず軽んじていたら、助けるために祈りもしないだろう。兄弟から与えられたら、あなたが価値ある者と認められたからである。辞退してはならない。

  他の人のために祈らない人、助けない人は、人の価値に気がつかない。いずみ姉から献金が届いた。昭男兄から写真が届いた。金井家から写真が届いた。祈っている人から応答があるとうれしいものである。孤独な人生を過ごすのは自分でそれを選択しているからである。「常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者」(8節)になるために神に応答し、与えるものでありたい。

 

4月28日

与えられた絶大な神の恵み  Uコリント9815

[新改訳]  コリント人への手紙第二   

9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

9:9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

9:10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

9:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。

9:12 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。

9:13 このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。

9:14 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。

9:15 ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

 

 信仰の現実性というか、現実生活における信仰の維持や深まりというものを考えることが多い。信者も魂を救われてしばらくは良いが、一年、二年、三年、そして五年となっていくと、信仰が形骸化してきて、離れてしまう人が多い。この教会は比較的定着する人が多いが、それでも初めの信仰、純粋な信仰から逸脱してしまうことも見受けられる。

  クリスチャンになるということは、自分の罪を認め、この世に死んで神の国に生きるということであるが、単に「神を信じている」というだけの人もいる。ヤコブ書には、「悪霊も神はおひとりであると信じている。」(2:19)とあるように、行いのない信仰は信仰者とは言われない。

  私の見るところでは、落とし穴は、仕事である。多くの人がひたむきに仕事をすると信仰などどうでも良いというようになってしまう。教会に来るまでは、あんなに魂の救いや神のことを考えていたのに、ひとたび救いを知り神の愛を知ると軽んじてしまう。聖書には、はっきりと「神と富とは両立しない。」(マタイ6:24)とあり、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがやさしい。」(マタイ19:24)と断定している。お金をことを考え始め、労働に魅力を感じ始めると、自分の努力が稼ぎになって現れてくることに快感を覚える。

  政治家や役所そして、警察官や裁判官までもおかしくなってきた。企業も指導者のミスや責任回避が目立つ。もはや終身雇用も年金も保険もみな危なくなり、銀行預金も返ってこない可能性が出てきたのに利子がないも同然になっている。経済の立ち直りはいつのことかもわからないのに、天災人災は多くなってきている。それでも人々は必死になって働こうとしている。国も会社も頼りにならないのがわかってきたら、こんどは金に頼ろうとしているのである。

  「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10:22)と強調しているが、それでも一生懸命働くことをやめない。外国人からみると異様に見えると思う。クリスチャンまでも、一生懸命働いて認められ、そのことで証を立てようとしている。それでは、救われる前と何も変わっていない。ただ勤勉に働くことによって、証が立つとかクリスチャンとしての違いを見せられるという動機付けが強固になっただけのことである。立身出世はこの世の動機付けであって、聖書には、奴隷は奴隷のままでもいいではないかとさえ書いてある。

「牧師に成功。不成功はない。」と述べたが、クリスチャンも同様である。大事なことは「主に忠実」であって、自分に与えられた能力、才能、時間、富などを主にあって適切に使うことである。あなたに与えられたものはいったい何なのか。

  ペテロとヨハネが生まれつきの足の動かない障害者の物乞いに「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言って歩かせた。神から与えられているものの大きさ、すごさに気がつかなければならない。

  自分の持っているものを自分のために用いる人は、どんどん人生が貧相になっていくだろう。「蒔く人に種とパンを与えてくださる神」を信じる者は、自分の持っているものを惜しみなく、神の働きや他の人々に注いで、さらに神から与えられ任される者になっていくだろう。

  信仰は行いによって証明され、行いとは自分の持っているもの、富、時間、能力、考えをどれだけ、神と隣人に注いだかによって証明される。そして、そのような人々は「惜しみなく与えてくださる」神をあがめずにはいられない。