「愛は寛容であり、親切です。」 Ⅰコリント13章3~13節

 牧師は、それで人に厳しくなりますが、それが使命だと思っている人が多くいます。ところが私自身は、他宗教でも、異端でも、熱心な人には関心を持ち、また、変人、奇人、発達障害や、精神病の人と親しくなることが多いのです。それは、人間の特性に関心があり、その人の特異性の原因を探りたいからです。それで、私は自分と違う考え方、性格、立場の人を嫌ったり、批判したりすることはありません。

 真摯に生きたら、人は神に会い、聖書に導かれると考えていますが、どうして、そのような偏屈になるのかを探るのです。これまでの経験から偏屈の理由の幾つかのことがわかってきました。

① その人の家庭状況や地域性、境遇

② その人の病気や障害

③ その人の生活習慣や職業、生き方

 妻と結婚した時、幾つもの違和感と疑問がありました。非常に優れた頭脳と感性があるのにも関わらず、考え方や生き方が変で、信仰にも狂信的なところがあり、学生生活も維持できないほど病的になっていました。

 伝道者になるという希望は、現実生活からの逃避だと思いました。大金持ちで乳母に育てられ、社会の規範を身に着けていないことに気が付きました。家庭の躾はされておらず、料理も買い物もできませんでした。

 体調の悪さは、貧血と低血糖症からくることを突き止めました。低血糖症を治しても、未だ変なところがあり、発達障害であることを確認しました。医師としての能力は秀でているので、スタッフを揃えて医院を開業すれば、働けるとして動きました。体力もついてきて、動作が止まったり、悩みの習慣も癒されてきました。会話は相変わらず、主語述語がないので、確認しながら丁寧に、何を話そうとしているのか聞き出しました。

 当初は、妻を変えようしましたが、発達障害という特性は変えられないので、受け入れることにしました。注意欠陥多動性障害なので、妻を一人で行動させないように、働き過ぎないように見守りました。そういう中で、私は牧師らしい人間になってきました。そして、神の祝福を得てきました。

哲学者のカール・ポパーが1945年に「寛容のパラドックス」(英: paradox of tolerance)を訴えました。無制限の寛容は最終的に寛容そのものを破壊するという矛盾です。その理由は、社会が不寛容な人や暴力的な勢力に対しても「意見の多様性」としてすべてを許容すると、不寛容な者たちが力を持ち、最終的に寛容な人々の自由や権利を奪ってしまうということです。文学者の渡辺一夫は、「寛容と不寛容が対峙するときには、不寛容ははじめから終わりまで躊躇なしに暴力を用いるのに対して、寛容の武器は説得と自己反省しかないとして、寛容は常に不寛容に対して無力であり敗れ去るものである」と言います。

 信仰者は、無理してあまり考えずに寛容であろうとします。しかし、それは欺瞞です。人に対する興味、人格的な愛なしに寛容という態度を取ると、「寛容のパラドックス」にあいます。

 先週は、形式的な愛を保持しようとして、子供を甘やかし、社会的に虚弱なものにしてしまうことを語りました。10歳くらいまでに親によって厳しく育てられていない人は、怒られたり、失敗したりするとパニックになり、対応できなくなるのです。

 同様に、今日の聖句に示される品性や行動も、信仰に基づいた愛でなければ、「パラドックス」(一見正しく見える前提と論理から、受け入れがたい矛盾した結論が導き出される現象)になるのです。それを偽善と言います。

 「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、あなたの神、主を愛しなさい。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マタイ22・37.39)を全うしていないクリスチャンの人生は、少なからず破綻します。なぜ、完全な愛が積み深い人間に必要なのでしょうか。それを求めて心を尽くして生きる中で、私たちは変えられていくのです。

 自分の弱さ、欠点を正当化したら、神にあって生きることはできません。人生には、神がそれぞれの困難を用意されています。多くの人が神を見くびっています。私が人に対して寛容なのは、神の裁きがそれぞれにあり、私が判断することではないからです。

Ⅰコリント13章3~13節

  • 13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
  • 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
  • 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
  • 13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
  • 13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
  • 13:8 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
  • 13:9 私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
  • 13:10 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。
  • 13:11 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。
  • 13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
  • 13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

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MYoshi
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