「愛を唱えるのは危険?」 Ⅰコリント13章1~13節
「愛」と言う言葉は、現代では非常に人気のある言葉です。ギリシャ語では、4種類の愛があるとされます。「ストルゲー」=家族愛、「エロス」=性愛、「フィーリア」=隣人愛、友情、「アガペー」=真の愛、神の愛、というものです。
私の感覚では、先の3種類が現代では、示されていますが、「アガペー」という愛は、小説などでは類似したものが示されますが、実際にはわからないのではないかと判断しています。
さて、説教題の「愛を唱えるのは危険?」としたのは、「愛」を強調する人ほど周囲の人に自分への「愛」「庇護」を要求する傾向が強いと想われるからです。
親は、「愛」を要求されて、子供を厳しく育てることができなくなっています。教師も、厳しさは嫌われ、優しさや寛容さが要求されます。社会もハラスメントが問題になり、訴えられることを恐れて、人を甘やかすようになってきました。
そういう「愛」という迷信で甘やかされた青年たちは、努力や責任を持つことができず、社会で働くことも家庭を築くこともできなくなり、親の「愛」を要求し続けて、家庭も、本人も崩壊していくのです。
「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」(Ⅰペテ1・24.25)。この世の考え方や流行の背後にはサタンの惑わしがあります。「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」(エペソ2・2)。
「子供を愛するから」といって、厳しく育てないことは、愛ではありません。聖書には、「むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる。」(箴言13・24)とあります。私は、数週間に亘って、このことを語ってきましたが、同意できない人や理解できない人がいるようです。聖書にある言葉を、自分の感情で従わないと、身に滅びを招きます。聖書には「理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。」(Ⅱペテロ3・16)。
父親も、母親も、子供も、指導者も手を抜いて楽をしたいという気持ちがあります。厳しくするならば、自分もきちんとしなければなりません。自分が気ままに生きているならば、子どもに厳しく躾けることはできないからです。そして、その自己規律こそが愛なのです。
1節の異言は、その人が霊的な賜物を持っているということです。しかし、愛のない人の霊的しるしは、人を助け、教会の徳を建てあげることには役立ちません。
2節の預言や信仰的知識も、或いは、超自然の力を持っていても、愛がないなら虚しいものです。愛とは、人に見せるものでも、自慢するものでもなく、人を助け、その犠牲になることができるものです。
慈善や犠牲的な行動も、自己顕示欲から来るものならば、神には通じません。多くの人が、自分の行動を優先して生きています。それでは、「愛」らしい行動をしても、人には伝わらず、人を変えることもできず、神にも覚えられません。
教会のラインで、助けを求める要請があっても、なんの応答もいない人が多いことに驚いています。関わりたくない、何もできない、ということなのでしょうか。或いは、自分の生活に追われているのでしょうか。私は、ラインやショートメッセージ、メールにはいつも注意しています。メールは毎日数百通あり、ラインも多くのグループと関りがあります。しかし、私の助けを必要としている人がいるかもしれないと、常時確認しています。忙しいと言う人は、その言葉のとおりに「心が亡んでいる。」のです。
娘は家が浸水しても、多用な私たちを気遣って、助けを求めませんでした。兄弟が助けていました。でも、私たちは親として当然なこととして、家の掃除と片づけに行きました。親に愛があれば、自分の都合などは関係なく、子どもを助けるのです。子どもを育て、経験を積ませるために、金銭はふんだんに使いました。その代わり、自分たちは節制に勤めました。子どもに対して、自分勝手なことは赦しません。それが習慣となり、子どもたちはお互いを助けるために、自分を犠牲にします。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず」(5)。
神を第一として、その基準は子どもに対しても変えません。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、あなたの神、主を愛しなさい。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マタイ22・37.39)は人生の絶対訓です。これが守れない人には、愛が大事などという資格はありません。厳しくしたら、その後の動静に気を使います。成長するように、強くなるように、心配になります。手を抜いて生きる者は、人に対して厳しくすることはありません。関わり合いなく生きようとする人の信仰を神は認めないように思います。
Ⅰコリント13章1~13節
- 13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
- 13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
- 13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
- 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
- 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
- 13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
- 13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
- 13:8 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
- 13:9 私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
- 13:10 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。
- 13:11 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。
- 13:12省略
- 13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
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