「人の優劣の本質。」 Ⅰコリント12章18~27節 

 日本社会は、人や物の優劣を見る傾向が強いようです。テレビで「何でも鑑定団」という番組があります。特に高齢者には人気があり、価値がある物を求めて、鑑定してもらうものです。安価で買った物が高価になると大喜びで、それを求めて古物商や美術商で掘り出し物として金銭を費やす人が多いようです。

 私はたまに見ますが、愚かな人間模様を顕著に現しています。物の価値とは、値段の高低で見るものではなく、自分の感性と使い勝手によると考えています。昔、ハワイの画廊で気に入り購入した絵は、確認したら信仰深いクリスチャンが森の中にたたずむ白い花を描いたものでした。イギリスは美術館、博物館が入場無料ですから、多くの芸術を鑑賞しました。私は、一つ一つを丁寧に見るのではなく、サーと回って、印象深い物を見つめ、その作者の心情と現わそうするものを考えます。

 日本社会は、優秀な人を作り出そうとし、教育も家庭もそういう方向で動いています。子どもたちを優秀にしようとして、枠にはめ、覚えさせ、教え込みます。

 医療でも障害や病気を治そうとして、処置や治療を続けます。しばしば言われることが、がんは治ったけれど死んでしまったという例です。治すこと、改善することが善だと信じて、生活や食事、考え方にまで踏み込んで指導することが往々にあります。そして、経済的に破綻し、家族関係も破綻してしまうこともあります。

 介護や福祉も、過剰介護や世話がよくあります。良かれと思って、世話をやき過ぎ、干渉してしまうのです。本人の意向や感情よりも、周囲にとって都合の良いようにさせてしまうのです。

 相模原殺傷事件では、元職員によって知的障碍者福祉施設で19名の入所者が刺殺されました。犯人は、当初熱心に働いていましたが、次第に思うようにならない入所者やその家族に敵意を抱くようになったようです。

 発達障害の人も格段に増えてきました。しかし、昔ならば「変わり者」「気の利かない人」「落ち着きがない」「根性がない」「自分勝手」「頑固」などと言われても、そういう人は一杯いたので、それなりに生きていたものです。それを、普通ではないとして病名・症状を付けて区別するようになりました。

 私の友人の発達障害の研究で博士号を取った人は、「医者は殆ど発達障害。そうでなければあんなに頭は働かない。」などと言っています。「馬鹿と天才は紙一重」とも言われましたが、常識に囚われない行動をする点において、似ていると思われていたのです。

 「愛する」というと世話をするというように思う人が多いようですが、愛するならば、そのままを受け入れるのではないでしょうか。良くしようとすること自体が、相手には迷惑かもしれません。いやむしろ、してはいけないことかと思います。

 「神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。」(18)とは、その人の個性は神が与え備えたものであるということです。私の妻は発達障害であると公表していますが、その天才ぶりは見事です。日常生活では、風変わりであり、注意力や気づきが鈍いところがあるのですが、そんなものだと慣れれば、どうということもありません。却って、その劣等感が、優しさにも繋がってきます。

 日本人は、普通の人にとって暮らしやすいように、迷惑をかけないようにと配慮しすぎているのではないでしょうか。教会で、世話をし過ぎて窮屈になる場合が日本では非常に見受けられます。私は、家庭訪問もなるべくしません。狭い家屋で、来客があるというのは、かなりストレスです。昔はともかく、現代日本では、家に客を迎えるということはあまりありません。

 この聖句にあるように、「目」や「手」、「頭」や「足」は全く機能も特徴も違います。目が手に自分の観点や機能から、目のようになるように指導したら、迷惑です。「ほかより弱く見える部分」を強くしようとするのは、聖書的にはいけないことです。

 未だに強く残っている「教会成長」という牧師の願望も、信者には迷惑なことです。そのような思考で牧師が、自らの優劣を比較したら、殆どの牧師は劣等感にさいなまれるでしょう。信者も優劣で自らを比較評価する習慣が身に付いていたら、平安が持てないでしょう。

 確かに同じ働きでも、優劣はあります。ところが、優秀さを自認する人々が堕落するのです。「この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち、無に等しい者を神は選ばれたのです。」(Ⅰコリント1・28)。優秀で能力のある敬虔な人が集まったら教会は成長するでしょう。そのような教会になるためには、無理に教え込んだり、助けたりせず、自律的に生きて、神と人との仕える働きをする人々が「より優れた賜物を熱心に求める」(12・31)ことです。つまり、表面上の優秀さではなく、神に仕える謙遜な主のしもべが集わなければ、祝福される教会は形成されません。信仰は、神に献げる人生が問われるのです。

Ⅰコリント12章18~27節

  • 12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
  • 12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
  • 12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
  • 12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
  • 12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
  • 12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
  • 12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
  • 12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
  • 12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
  • 12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

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MYoshi
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