「試練は主の導き。」 使徒8章1~8節

 戦争や争い、困難や試練を怖がり、嫌うのは女性の特徴であり、家族を守るための大事な習性です。ところが、その影響が社会や家庭に強く現れて弊害をもたらしています。それは、男性がそのようにして育てられ、社会も温厚な交流を求めてきたことから、厳しさや規律、社会規範や道徳よりも、他者を配慮して円満に事を進めることが優先されてきました。「世界に範たる秩序」として日本を誇ってきましたが、終末の様相は、そういう人間的統率を覆しています。

 本来、自然や人間社会は弱肉強食でした。強くなければ生き残れず、或いは巧みに争いや攻撃を避けることが必要でした。ウクライナにしても、イランにしても、イスラエルにしても、アフリカで頻発する民族紛争にしても、当事者は命の危険に常にさらされています。

 祈祷会で話しましたが、神は「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」(へブル12・5.6)と私たちを諫めています。

 「父が訓練しない子がいるでしょうか。」(同7)とありますが、日本社会で子どもを訓練する親は少ないです。それは、クリスチャンでさえ、聖書の教えよりも、「仲良くする。」「愛する。」という社会通念、つまりサタンの惑わしに乗ってしまっているからです。戦うことを怖がり逃げるならば、熊も襲って来ます。脅したら屈服するならば、悪がはびこります。親や上司に反抗する若者がおりますが、「自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。」(出エジプト21・17)と赦されるものではありません。日本社会は性善説ですが、聖書は性悪説です。子どもは躾けなければ人間らしくならず、厳しくしなければ怠けるのです。

 イエス様は、「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7・14)と言われました。信仰生活は、神の国という栄光の永遠の住まいに入る資格を得るための厳しい選択の道です。これを楽をして得られるはずがありません。多くの人が、神を自分のしもべのように考えて、願いと助けを乞います。しっかりとして子どもは、困難な時に自分で解決の手段を考え、対応して、その結果を親に報告します。親に「助けて。」などと泣き叫ぶのは甘やかされて育った子どもだけです。また、自ら成長過程で、自分を強くし、優れた者になろうと切磋琢磨します。クリスチャン人生は、振り返れば恵みですが、その道は十字架の道です。

「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。」(1)。暴動や攻撃は突然始まります。多くの人が、「戦争や争いが無いように」と願いますが、それは聖書を読んでない自分勝手な甘い人々の考え方です。「みことばを聞くと喜んで受け入れるのですが、根がないので、しばらくは信じていても試練のときに身を引いてしまう、そのような人たちのことです。」(ルカ8・13)。

 ステパノ殺害の興奮の中に巻き込まれる恐れがあったけれど、「敬虔な人たちはステパノを葬り」(2)と恐れずに為すべきことをしました。そんな中「サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。」)3)。大変な迫害と困難が教会に起こりました。信者はどうしたでしょうか。

 「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。」(4)。エルサレムには住めなくなったけれど、福音は捨てず、却って伝道をしながら移住をしたのです。

 ウクライナ出身のバンドゥーラ奏者ナターシャ・グジーさんは、6歳の時にチェルノブイリ発電所の事故で放射能を浴び、さらに故郷が侵略されました。彼女の演奏、特に「アベ・マリヤ」は感動的です。同じ奏者カテリーナさんも同様に被ばくしています。

 「あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」(Ⅰペテロ4・12.13)

 私の感覚では、殆どの日本のクリスチャンが試練と感じるものは、先人に失礼なような軽いものです。命を狙われるわけでなく、逃れられない暴力や攻撃を受けるものでもありません。それを悩み苦しむのは、父によって訓練されていないからのような気がします。

 私もクリスチャンになってから、多くの批判攻撃迫害を受けました。しかし、聖書の先人を思えば、なんでもないようなことです。それでも、信仰者として強く生きるために、職業を選び、経済的に確立しようと努力し、家族を鍛えてきました。残念ながら、この終末において、証しもせず、礼拝を守らず、献金も奉仕もしない人が試練に耐えられるとはお思えません。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1・12)

使徒8章1~8節

  • 8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
  • 8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。
  • 8:3 サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。
  • 8:4 散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。
  • 8:5 ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
  • 8:6 群衆はピリポの話を聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに、そろって関心を抱くようになった。
  • 8:7 汚れた霊につかれた多くの人たちから、その霊が大声で叫びながら出て行き、中風の人や足の不自由な人が数多く癒やされたからである。
  • 8:8 その町には、大きな喜びがあった。

投稿者プロフィール

MYoshi
MYoshi