「祈りは主の声を聴くこと。」 Ⅰサムエル3章8~14節
孤独死の約8割を男性が占め、未婚男性の死亡年齢は67歳で男性の平均年齢よりも15歳も低いそうです。男性は社会(会社)との接点がなくなると、急速に孤立する傾向があり、男性は孤独感を自覚しにくく、周囲に助けを求めるのが苦手な人が多いことも要因とされます。
女性でも、高齢化に従って、交流が少なくなっているようです。人と接し、話をすると、相手とこじれたり、要求されたりしたら困る、などと親しい人を選んで話をするのですが、その親しい人と接すると深くなり過ぎてしまい、疎遠になることをえらぶようです。難しいものです。
年齢に関わらず、最近の日本人は人と話をすることが上手くありません。人の話を聞かないで、隙あらばと自分の話をします。会話の流れも、相手の話も関係なく、言いたいことを言う情景を見て可笑しくなります。
子どもの頃、勝手に家に来てお茶を飲み、茶菓子を食べて帰る近くのおばさん達を見ながら、母の人の良さに感心していました。おばさんたちはいつもごちそうなりながら、お返しを持って来るわけではありません。母は別にそういう世間話が好きな人ではありません。ただ、人の話を聞き、接待することが好きだったのです。良き平和の思い出です。
私は一方的に話をする人は苦手です。その人の憂さ話や自慢話を聞く気はありません。人と話をする時は、自分から話をすることは避け、祈りながら何を語るべきか神に問います。わからない時は、聞くだけ聞いて、後で祈りながら、どうするべきかを神に問います。
「祈りなさい。」としばしば指導しますが、祈りをわからない人が多いことに気が付いています。
祈りというと要求ばかり繰り返す人が多いです。「祈る時、異邦人のように同じ言葉をただ繰り返してはいけません。彼らは、言葉数が多いことで聞かれると思っているのです。…あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(マタイ6・7.8)。私は、この聖句を読んで、これこそ神様だと安心しました。
子どもに「何が欲しい。」と聞いて与える親が多いです。しかし、必要以上に与えると子どもはだめになります。適切な小遣いをあげ、欲しい時には手伝いをして稼がせないと働く習慣が身に付きません。そういう感覚で生活しないと、自分の欲しい物はねだれば良いと思ってしまいます。
ところが、欲しがらない、無理をしたくない、他と関わりあいたくない、という人がいることにも気が付きました。そういう人は、祈ることもありません。希望もありません。ただ、無難な日々を求めています。
とりなしの祈りをしている中で、ある人たちはこの世の暮らしで心傷つき、苦しんできたことに気が付きました。イエス様は、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイ5・4)と語り掛けられました。しかし、それは神を知らない、信じていない人々に対する語り掛けです。信じていても、悲しんでいる人は神を信じてはいません。
今日の聖句は、息子を諫められずに堕落した祭司エリのもとで育てられた、大預言者サムエルが最初に神の語り掛けを聞いた時のことです。サムエルは、自分に神が語り掛けるとは思いもよらず、エリの語り掛けだと誤解します。「お話しください。しもべは聞いております」(10)と返事をするように教えられたサムエルは神の裁きの声を聴きます。
さて、この時語られたのは、父なる神でしょう。それでは、現代の私たちに語り掛けるのは、どのようにしてでしょうか。
イエス様は、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14・26)と言われました。「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての心理に導いてくださいます。御霊は、自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」(同16・13)。現代では、私たちのうちに宿る聖霊なる神が私たちに語り掛けてくださるのです。
それでは、どうして殆どのクリスチャンが神の声を聞こえないのでしょうか。それは、聴こうとしていないからです。どうして聴こうとしないのでしょうか。それは、神の声を聴いたら、それに従わなければならないと、罪ある人間性が拒むからです。多くの人が、自分にとって都合の良いように生きたがるからです。
祈りとは、長い祈りと神に聞こうとする態度が必要です。祈りは理性的には無駄な行為です。神を真に信じる人は、祈りに心を傾け、時間を掛けます。真摯な信仰を持たない人は、祈りませんし、祈れません。形式的な祈りは、偽善者の祈りであると、イエス様は嫌います(マタイ6・5)。
聖霊によって祈ると、聖霊が私たちに語り掛けてくださいます。何を語り掛けるのでしょうか。「堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。」(Ⅰコリント1・58)。主の業のためです。自分の幸せや祝福の為に祈るのは、異邦人のようです。そういう人に、聖霊が語り掛けることはありません。
Ⅰサムエル3章8~14節
- 3:8 【主】は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、【主】が少年を呼んでおられるということを悟った。
- 3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『【主】よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。
- 3:10 【主】が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。
- 3:11 【主】はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。
- 3:12 その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。
- 3:13 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。
- 3:14 だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」
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