「信仰者の淘汰。」 使徒2章40~47節

超自然の奇跡やしるし、神の圧倒的な栄光の顕現によって、「三千人ほどが仲間に加えられた。」(2・41)。「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。」(42.43)。

 初代教会の最初の在り様は、信者にとって夢のような理想的な信仰生活でした。周囲の人々にも、神に対する恐れが生じて、その信仰の群れに続々と人が集まってきました。

 「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。」(44-47)。神の国の実現のような在り様であり、この後の信者もこの理想を追い求め、実現しようと努力します。

 しかし、実際には、集まった人々は多様でした。前からイエス様に付いていた人もいれば、関心のなかった人もいます。これらの奇跡を見て、真に悔い改め、救いと聖霊のバプテスマを受けた人もおります。

 先日の会社の修繕放棄事件で、「クリスチャンなのに、どうしたのでしょう。」と言う牧師や教会員がおりました。「クリスチャンは、罪を犯さない、嘘を言わない、ごまかしをしない。」と考えているのです。

 クリスチャンは、立派だという考え方が、実は自分の弱さ、罪深さを隠し、偽善的な生き方を自他に強いてしまっているのです。私には、その会社の人が、決して悪人だとは考えておりません。ただ、誘惑に負けて、仕事をきちんとする習慣がぬけてしまい、また、自分のミスに真摯に向き合う勇気が持てなかったのです。まだ悔い改める機会はあります。

忘れてはいけないことは、主イエスと2年半共に過ごし教えを受けた弟子たちでさえ、十字架のイエス様を否定し、逃げたということです。そして、自らを見つめれば、罪を犯さず、清く正しく、真摯に信仰生活を送ってはいないことを誰でも認めざるを得ないということです。自分の罪深さを認めない人は、他の人に対しても律法的にあたり、偽善的な人間になります。そして、自分のミスに対して、言い訳や弁解をして、言い繕うのです。そういうクリスチャンが多くおります。

 この共同生活には、模範的な弟子のバルナバがおりました。彼は、自分の財産を処分して、このような信者の共同生活の資金として献げました。ところが、バルナバへの称賛を見て、アナニヤとサッピラ夫婦も真似をしました。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(5・3.4)。神を信じて行ったのではなく、人々の称賛を得ようとして、偽りをしたのです。つまり、全部を献げたと嘘をついたのです。

 三千人以上が集まったら、偽信者も、偽善者も必ずおります。まして、信者に成り立ての人ばかりです。見栄を張ったり、嘘を言ったり、ごまかしをする習慣の人はおります。アナニヤとサッピラは多寡をくくって、この注目を浴びた信仰集団の指導者の一人になろうとしたのでしょう。二人とも、神の罰を受けて死にました。

 福音書には、「偽善者」という言葉が22回あります。「偽り」を神は非常に嫌います。「同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。」(マタイ23・28)。

 使徒6章には、共同生活における配給において苦情が出たことが記されています。信者が増えるにつれて、生活における不満が出るのです。これは、夫婦においても同様で、慣れるにつれて、お互いに対する不満が出ます。これが罪の怖さで、これをなおざりにすると、その人の生活と人格に破綻が出てきます。信仰生活も次第に真摯な姿勢が緩んで、欺瞞な生活がはびこってきます。日常生活が試みなのです。

 「いのちに至る門はなんと狭く、その道も細いことでしょう。」(マタイ7・14)。「主よ、主よ、と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(同21)。このような厳しい主イエスの言葉を多くのクリスチャンが軽んじているようです。「しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(同8・12)。

 これらのイエス様の教えを知れば、世界に数億人いる自称クリスチャンの殆どは神の国には入れないことがわかります。それは、神が厳しいのではなく、人間が神の教えをないがしろにして自分勝手な罪の生活を営んでいるからです。「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1・14)。罪人が神の国に入ることはありません。悔い改め、信仰を志しても、必ず試みに遭い、淘汰されます。そして、御霊が去った人は悔い改めることができなくなります。怖いことです。

使徒2章40~47節

  • 2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
  • 2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
  • 2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
  • 2:43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
  • 2:44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
  • 2:45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
  • 2:46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
  • 2:47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

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MYoshi
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