「職業を与えられる。」 ヨハネ21章3~13節
ここの聖句は、復活の主に会ったのに、漁をしようとする弟子たち、として使命感の育っていない愚かな状態として説教されることが多いようです。私は、お腹が空き、何か食べなければならず、しかし、イエス様と一緒ならば、信者が食べ物を提供しただろうけれど、信者がいなくなった状態では、慣れ親しんだ漁で空腹を満たさなければならない、という当然の判断のように思われました。
私は、極端な行動を信仰深いと強調する説教をあまり好きではありません。聖霊に満たされ、導かれる中で極端で過激な行動をすることはありますが、信仰生活とは、基本的には平安で常識的なものです。牧師さんだけが信仰熱心を強調すると、信者がついていけなくなります。
信仰を持つ人は、この世の在り方、生き方に付いていけなくて、神を求めて救いに導かれることはよくあります。「この世の取るに立ちない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」(Ⅰコリント1・28)とあるとおりです。牧師も、「でもしか牧師」と呼ばれ、「牧師にでもなるか、牧師にしかなれない。」と言われ、世の中では馬鹿にされたものです。要するに、クリスチャンは、世の中では変わり者とみられることがよくあります。
私自身もそういうことを知っていたので、「世の光、地の塩」(マタイ5・13.14)になるべく頑張ったのでした。しかし、次第に、Ⅰコリント書1章の「強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」(27)という言葉の奥義を悟るようになってきました。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(25)とあるように、どのような優秀で力のある人間も神には敵いません。
日本の宗教の、神にご利益を求める傾向も、違和感がありました。天地を治める神に対して、人間はその教えに従うことが大事です。神が人間に仕えるような考え方は、不遜なもので、道徳的にも、真理としても、おかしいものです。そういう面での宗教熱心が、クリスチャンにもあることは知っていましたが、果たして、それで祝福されるものかと懐疑感も持ちました。神に強引に祝福を求める信仰の傾向は、韓国や日本、そしてアメリカにもありますが、勝利者になろうという信仰の傾向は、信者に無理を強いてあまり良い結果を産みません。
自らの弱さ罪深さを認めるから魂が救われるのであって、そのようにして敬虔になり、謙遜になるのです。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9・23)は、事故や病気の時に祈ることであって、自分自身の思い通りになることを願うことではありません。
クリスチャンは、「優れた者になろう。」というこの世の考え方を、「仕える者になろう。」(マタイ20・26)というものに替えなければなりません。クリスチャンでも言い訳やごまかしがあるのは、劣等感が原因でしょう。生まれ育つ家庭や社会の価値観から解放されていないのです。 もし、あなたが、優れた者になろうとして生きるならば、救いや聖化、神の祝福からは外れてしまうでしょう。
「イエスは彼らに言われた。『子どもたちよ、食べる魚がありませんね。』彼らは答えた。『ありません。』」(5)。イエス様は、弟子たちが空腹なのを知っていたので、「153匹の大きな魚」(11)を捕らせ、炭火を焼き、パンまでも用意されたのです。
「彼らが食事を済ませたとき」イエス様はペテロに尋ねました。「あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」(15)
自分の罪深さ、弱さを悟ったペテロは、自分の能力や意思ではなく、「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」(15)と答えました。三度の質問に対して、ペテロは「主よ、あなたはすべてをご存じです。」(17)と答えます。
我こそは、という自信や驕りはなくなり、主に従う以外に為すすべがないことを悟っていたのです。そのペテロに対して、イエス様は、「わたしの子羊を飼いなさい。」(15)、「わたしの羊を牧しなさい。」(16)、「わたしの羊を飼いなさい。」AA(17)と、使命と職業を与えます。
しばしば、牧師になるには牧師の召しが神から与えられる必要があると、牧師たちが言います。しかし、当教団は「信仰綱要」を「基本的心理に関する宣言」と替え、1995年に「教会員必携」を改訂しています。そこには、「一一聖職 神の召しと聖書に基づいて任命された聖職は」を、「一一奉仕の務め 神によって召され、聖書に基づいて任命された奉仕の務めが」と替えられています。
つまり、牧師職は特別に神によって牧師として召されることが必要であるとされ、信徒と牧師の差別を唱えていたこと、を改めたのです。
職業に関わらず、信者は⓵世界宣教、②神への礼拝、③教会形成、を果たすべく召されているのです。職業に、優劣も卑賎もありません。人を差別する人は、自分の劣性を恥じ、優位に立とうとします。「偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」(マタイ20・26)
ヨハネ21章3~13節
- 21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
- 21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。
- 21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」
- 21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
- 21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。
- 21:8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。
- 21:9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
- 21:10 イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
- 21:11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。
- 21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。
- 21:13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
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