「家族は助け合う。」 詩篇133章1~3節

先週は、「神の家族」について語りました。当教会の理念にあるように、「教会には多種多様な人々が神によってこの世から召し出されてくる。」のです。生まれ、育ち、環境、その他によって全く違った考え方や習慣が形成されます。ただ、それは、罪深い社会によって形成されたものであって、聖書に基づいたあり方に基づいて作り替えられなければならないのです。「この信者を整え、神への奉仕という使命を果たすように導く」ことが教会の使命であり、そのことに従事することによって、「キリストの弟子として十字架を負い主に従う指導者」が形成されるのです。

 ところが、自分の個性や権利を主張し、自分の在り方を変えない人がおります。神は、そういう人に罰を与えることはないし、教会もそのような人を排除したり、批判したりしてはいけません。ただ、「罪とは自己中心」ということであり、思い通りに生きることがその人生の崩壊に繋がるのです。「神中心」が祝福の源であり、その人の繁栄にも繋がるのですが、自分の思い通りに生きようとする罪性は、それをしたくないのです。

 それでも自分の育った社会や家庭に従順な人、大事にする人は、それなりの祝福と幸せを見出します。社会に出ると、全く異なる考え方や習慣を持った人々と接します。自分の在り方を主張する人は、そうなると勝ち負け思考が強くなり、対決的否定的になって折り合わなくなります。

 牧師を長くしていて、「クリスチャンとして生きる。」ということを理解せずに、「洗礼を受けたらそれで良い。」、「礼拝に参加したらそれで良い。」、「教会の奉仕をしたら良い。」などと、クリスチャンとしての必要条件にこだわる傾向があることに気が付きました。大事なことは、『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』であり、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』(マタイ22・37.39)です。つまり、愛するという実践です。

 先日、ジャカルタの中国人のスティーブン・トン牧師の教会のオーケストラと合唱団が川崎でコンサートをしました。オーケストラは約60人、合唱団は80名以上の信者で、奉仕者も100人程度来ているでしょうか。アメリカでは6都市を回ります。プロもいるけれど、多くは献身的な信者でしょう。トン牧師は85歳ですが、約45分間の「新世界」を見事に指揮しました。最後には、会衆を立たせて、ヘンデルの「メサイヤ」を演奏しました。

東京都には約28万人、千葉県には5万8千人の中国人がいて、その5%はクリスチャンだそうです。その多くは、所属する教会がわからなくて迷っているそうです。他の国のクリスチャンも、所属する教会を求めています。

 日本人は外国人と付き合うのが下手です。日本流の生き方、考え方などを変えようとしないからです。私は、大学教授の周兄と話して、これまで抱えていた中国人への偏見がかなり解消しました。内容は文章には書けません。私の長男の妻は中国人です。会社の財務部長として活躍してくれています。長女は、カナダで医師です。次男は建築業で南米の人を5,6人雇っています。次女の夫はアメリカ人で、3女はフランス人と結婚しています。家族全部が集まると21名で、色々な言語が飛び交います。彼らは、私たち夫婦を大事にし、尊敬してくれています。そして、私は、今日の聖句を思い出したのです。

「見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。」

 伝道をして逮捕され、牢獄に入れられたパウロとシラスは「祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。」(使徒16・25)。すると突然地震が起こり、牢獄の扉が全て開いてしまいました。看守は、囚人が逃げると死刑になるので、「自殺しようとした。」(27)。彼は、「先生方、救われるためには、何をしなければなりませんか。」(30)と聞くと、パウロは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(31)と言います。「看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。」(33-34)。

 信仰生活は、考えたり、装ったりしてはいけません。「主イエスを信じなさい。」、「神を心から愛しなさい。」「人を真剣に愛しなさい。」で十分なのです。教会に一生懸命奉仕しましょう。老後のことを憂えるのは止めましょう。家族は、どんなことをしても支え、愛し、助けましょう。主は、あなたを祝福してくださいます。

詩篇133章1~3節

  • 133:1 見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。
  • 133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。
  • 133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

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MYoshi
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