「義の実を増し加えてくださる。」 Ⅱコリント9章6~14節
聖書には、「正義」「不義」「奥義」を含めて「義」という言葉が487回使われていました。その言葉を追い、確認するだけで恵まれました。現代のクリスチャンは、繁栄や成功を求め、或いは平和や愛を求めますが、義には無頓着のように思われます。それは、義とは、自分で判断するものではなく、「正しい関係」であり、神との正しい関係を意識することは、裁判的な意味での「無罪」よりも厳しいものが必要とされるからです。
人が正しいと思うことと、神が義とするものとの間には違いがあります。多くの人が、相対的な正しさを重んじ、或いは、主観的な自分にとって都合の良い生き方を選びます。しかし、「まず神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6・33)は、自分の考えを放棄し、神に従うことによって得られる基準です。
先日、すい臓がんで余命9か月の友人に会いに出かけました。「義のために迫害されている者は幸いです。」(マタイ5・10)のような人です。彼と話していて、確かに、「天の御国はその人たちのものだからです。」(同)との神の約束を感じました。
聖書は、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1・17、ガラテヤ3・11,へブル0・38)と宣言しています。その義は、どうやって知り、身に着けていくのでしょうか。「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」(ローマ1・17)。ですから、聖書を自ら読み、聖霊によって教えられていかなければ、義はわからないのです。「あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。」(同6・20)とあるように、魂が救われ、聖書のことばに教えられるまで、人は勝手に生きるのです。それどころか、「彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」(同10・3)とあるように、教会に連なり、教会によって教えられなければ、奔放なクリスチャンになってしまうのです。そういう人は多くおります。牧師が必要なのは、そのような義について、信仰について丁寧に教え、教会を形成しなければならないか”です。生まれつきの生活や性格に、信仰を加えただけでは神の義を獲得することはできないのです。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(Ⅱテモテ3・16)
教会においてこそ、この6章のようなことを実践し、身に着けていくことができるのです。このような自発的愛の行動を実践し、それを受けていくと、教会において、他の人に要求し期待する我儘な人が生まれてくることも知っています。そういう人は、神と教会の愛の中で守られていきますが、神はそれを見守っています。「天の御国は旅を出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。」(マタイ25・14)。預けられたものを活用しないで怠けていた者は、「外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」(同30)ということになります。また、「羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け」(同32)と裁かれます。
貧しい人や能力のない人をさげすむ風潮や、自己努力や節制が足りないと非難する人もおります。しかし、人を助け惜しみなく与えるということは、慈愛の思いが満ちている義の行為なのです。信仰というものは、打算や効率、効果を考えないものです。打算で生きている人は、報いを地上で受けるかもしれませんが神の国では得ることはできません。
現代日本では、奉仕をする人も減っています。献金も減っています。慈善行為も減っています。人を世話するとか、孝行するとか、そういう犠牲的な行いは少なくなり、皆が自分の損得で生きています。そういう人々に、神が祝福することはありません。ところが、神を信じるということは、自分にとって都合の良い、博愛の神に期待するということになっているのです。要求を重ねる人に、神も人も、愛情を注ぐことはなくなります。
「種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(10)。親孝行は、自分を犠牲にしても果たすものです。子供を育てることも同様です。人を愛することも、自己犠牲なくしては、愛とは言えません。そこに神は義を見出し、「義の実を増し加えてくださいます。」。「義の実」は義の行いを長く続けることによってもたらされます。若い頃、「桃栗三年柿八年、柚子の馬鹿めは18年、久雄の大馬鹿30年」と自らを戒めたものでした。柿も柚子も、ミカンも大きな収穫を得るようになりました。義の実もおそらく、一度実りだしたら、毎年大きな収穫を得られると思います。
Ⅱコリント9章6~14節
- 9:6 私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。
- 9:7 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
- 9:8 神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。
- 9:9 「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。
- 9:10 種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
- 9:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。
- 9:12 なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです。
- 9:13 この務めが証拠となって、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、自分たちや、すべての人に惜しみなく与えていることを理解して、神をあがめるでしょう。
- 9:14 そして彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになります。
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