「聖くなければ見えない。」 へブル12章6~14節

ヨシュアがモーセの後を継いで指導者になり、ヨルダン川を越えて進み、その地の産物を食べた翌日からマナが降りることはなくなりました。新しい時代の到来です。すると、勇猛な武将が抜き身の剣を持って、前方を塞ぎました。ヨシュアが「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」(ヨシュア記5・13)と尋ねると、「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」と答えます。ヨシュアは、すぐに、自分が高慢になっていることに気が付き、「顔を地に付けて伏し拝み」(14)、「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」と尋ねます。主の軍の将は、「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」(15)と答えます。

 ヨシュアは、神の民イスラエル民族の指導者ですから、当然、神は自分たちに味方すると考えていたでしょう。私たちも、自分がクリスチャンであり神を信じているので、神は自分の味方であると考えます。しかし、ここで「主の軍の将」と名乗られ、自分たち中心の考え方や認識ではなく、自分たちが神に従い神に付くことが必要であると悟るのです。

 漢字の「聖」は神の言葉を聞く「耳」、神への祈りに使う「口」、「王」のような人、から「徳が高く神のような人」を意味しているそうです。

 仏教の「聖(ひじり)」は、「日知り」を意味し、「神秘的な霊力を持つ者」で「日の性質を知り占い教える」司祭者・呪術者を指したとされ、祭政一致であった古代の日本で聖帝や天皇などの語に当てられたそうです。また、諸国を回遊した仏教僧を示します。

 聖書では、「聖」とは神の属性であって、他のことに使ってはならない言葉です。「主の軍の将」が、「あなたの立っている所は聖なる場所である。」と言われたのは、そこに「主の軍の将」がいるので神の領域になり、聖なるものとなるからです。

「聖別」とは、この世のものから分離されて神との関係に入ることを意味します。「だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。」(Ⅱテモテ2・21)。「あなたがたはわたしの掟を守り、それを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖なる者とする【主】である。」(レビ20・8)。神が私たちを救いに選んだのは、「聖なる者」とするためなのです。

 洗礼を受けるのも、「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」と聖められるためであり、教会を築き上げるためです。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5・26.27)。

 ところが、人間は罪びとであり、聖められようとしないので、「尊いことに用いられる器」になることが難しく、「役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたもの」ができないのです。

 そのために、神は「その愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」(6)のです。試練や人生の諸問題は、私たちを聖とするための「訓練」なのです。

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(11)。強情な人、我がままな人、強欲な人、弱気な人、意志薄弱な人、注意力散漫な人、その他いろいろな性質、性格な人がいます。試練を乗り越えた人は、少しずつ聖くなっていきます。

「聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(14)が今日のテーマです。自分勝手に物事を見、判断するので、神の導きを悟ることができないのです。そして、試練に遭うのです。神が遭わせたというよりも、その人の欲や罪深さが試練をもたらすのです。

私たちの教団の教理の9番目に「聖化」があります。日々の歩みにおいて、自分が罪びとであることを認め、少しずつ聖霊の導きと支配に委ねて聖く成っていくのです。「あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖であるからである。』と書いてあるからです。」(Ⅰペテロ1・15.16)

へブル12章6~14節

  • 12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
  • 12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
  • 12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
  • 12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
  • 12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
  • 12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
  • 12:12 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
  • 12:13 また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。
  • 12:14 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

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MYoshi
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