「信仰の従順の奥義。」 Ⅱコリント10章1~8節

信仰の従順については、奥義として何回もお話ししましたが、繰り返すだけの価値のある奥義です。ローマ書冒頭に、「この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。」(1・5)とあり、結びには、「永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方」(16・26)とあって、使徒の働きの目的は、信徒に「信仰の従順」の奥義を身に付けさせることだと強調しています。

 なぜ、信仰の従順が尊ばれるのでしょうか。それは、「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。」(同5・19)とあるように、そもそもアダムが神の言葉に従わなかったので罪が生まれたからです。罪の本質は、自己中心であり、自我です。人間は、自分の思い通りに生きたいのであり、欲望に左右されるのです。従順は意志がなければできません。子供や精神病の人に従順を強いるのはむりがあります。認知症になっても従順ではなくなることが多くあります。

 パウロは、弟子たちに「私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうか、試すためでした。」(Ⅱコリント2・9)と語ります。「それは、私たちがサタンに乗じられないようにするためです。」(同11)。

 今日の聖句では、「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。」(4)とありますが、それはキリストの力です。それは、「あなたがたの従順が完全になったとき、あらゆる不従順を罰する」(6)のです。戦いの場で、兵士が上官に従順でなかったら、軍隊は一体になって戦うことはできず、勝利を得ることはできません。兵士が各々勝手に自分の思う方策をとって戦闘をしたら、敵の思うつぼであり、簡単に撃破されます。

 44年前、長男が生まれたけれど、妻はまだ医師国家試験に合格しておらず、助けようと思った両親が突然来て、妻子を車に乗せて行きました。連絡を受けた私が帰ると、家は誰もおらず、ガランとしていました。勝手に娘の家族に干渉して、赤子諸共連れ帰る義理の両親に呆れ、途方に呉れて祈ると、十字架のイエスの幻が浮かんできました。そして、讃美が聞こえてきました。「丘に立てる荒削りの十字架に掛かりて、救い主は人のために捨てませり命を」「世人笑い、嘲るとも十字架は慕わし」「責めも恥も辛くあらじ」。私は、幻を見ながら、「主よ。助けてください。」と祈りました。
 翌日、神学校を休んで鹿島行きの特急に乗ると、車両には私一人しかいませんでした。一人でいると怒りが湧いてきます。断固として妻子を連れ帰る決心をして、みことばをください、とパッと開いた聖句が、今日の聖句です。

 「あなたがたの従順が完全になったとき」という言葉に困惑しました。私は、神を信じ、従って来たと思っていました。しかし、「従順が完全」とは言えません。「完全」とは、自分の願い通りではなく、理不尽に思われる時でも、神を信じて委ねることだと思いました。「それはできない。」いつも勝手な要求を突き付けて、指示をするばかりの義父に従うということは、生まれたばかりの長男と妻を預けて暮らすことですから、とてもできない。涙が出てきました。神を信じるとは、自分の思い通り、願い通りの生き方ではなく、神が最善のことをしてくださると信じて、従うことなのだと悟り、受け容れました。

 義父と会っても、言葉が出ません。ただ、涙が出るだけでした。私は、「妻子を宜しくお願いします。」と言って帰りました。義父は、2日後に、彼らを返してくれました。そして、次の医師試験に合格したのでした。

 私の人生で、思い通りに進んだことは殆どありません。しかし、この時の体験で、「信仰の従順」を学びました。忍耐を身に付けると人と争うことはなくなりました。すべて、神が最善を為して下さると信じ、委ねると、腹を立てることもなくなりました。確かに、奥義です。じっと信じ、委ねていると、神が動き始めます。わたしがジタバタしていると、神は動いてくださいません。却って、間違ったことをしてしまいます。思い通りに動かなくても良いのです。ただ、神に従いながら、主の導きを求め、為すべきことを果たしていくのです。

Ⅱコリント10章1~8節

  • 10:1さて、あなたがたの間にいて顔を合わせているときはおとなしいのに、離れているとあなたがたに対して強気になる私パウロ自身が、キリストの柔和さと優しさをもってあなたがたにお願いします。
  • 10:2 私たちが肉に従って歩んでいると見なす人たちに対しては、大胆にふるまうべきだと私は考えていますが、そちらに行ったときに、その確信から強気にふるまわないですむように願います。
  • 10:3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
  • 10:4 私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。
  • 10:5 私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。
  • 10:6 また、あなたがたの従順が完全になったとき、あらゆる不従順を罰する用意ができています。
  • 10:7 あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもキリストに属しているということを、もう一度よく考えなさい。
  • 10:8 あなたがたを倒すためにではなく、建てるために主が私たちに与えてくださった権威について、私が多少誇り過ぎることがあっても、恥とはならないでしょう。

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MYoshi
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