「後先の全てを受け容れ感謝!」 Ⅱコリント5章10~17節
クリスマスパーティーはいつも楽しいけれど、今年は妻が笑い転げていました。家族の食事会も楽しく、従業員との交流も和らいだものでした。保育園クリスマスには、妻のピアノ演奏と私の独唱も初めて行い、噂になりました。いろいろありましたが、今年は人生の熟成を感じています。何があっても動揺することなく、受け入れて神を信じることができるようになりました。
私たち夫婦の行動は、神への奉仕や教会の形成に焦点が当てられています。そういう面で、連続して洗礼者が出ていないことは、心の痛みであり、神に申し訳ないと考えています。
年末に会った多くのクリスチャンでない方々は、愚痴や不満が多く、対応に困りましたが、人は経済や状況に囚われ左右されることを実感しました。とりわけ年配、高齢者は止めどもなく不満が出てくるので、私は話をじっと聞くことを心掛けているのですが、途中で切り上げさせてもらうことが多くありました。
不満の多くは経済事情の悪化が原因のようです。バブル経済の崩壊後、徐々に個人の経済状態も悪化してきて、ここに来て急に物価高騰や収入の目減りが顕著になり、生活に支障が出てきたのです。健康状態の悪化も多くの不満があるようです。他人に不満を言っても解決にはならないのですが、それが止められないのが高齢者なのでしょう。話を聞きながら、「クリスチャンで良かった!」と思わせられたものです。
健康状態については、「それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受ける」(10)とあるように、歩んできた人生における健康管理の実態が、そのまま高齢になると現れて来るようです。クリニックニュースの1月号に書きましたが、食品添加物が、がん、心疾患、喘息、アトピー、腎臓の腫瘍や石灰化、神経系、などに悪影響をもたらします。そして、厚労省などの安全基準は、それらの単独の害によるものですが、実際には複合的に汚染され蓄積して健康を害しているのです。悪食の人は見るからに、その影響が身体に現れています。偏食や好き嫌いも身体に現れます。「肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。」(Ⅱコリ5・9)。「肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。」。主に喜ばれないような身体の管理をしては身を滅ぼしますね。
お金の管理に関しても主が警告しています。「どんな貪欲にも気を付け、警戒しなさい。…その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12・15)。自分が稼いだと考えたら自由に使いたいものです。そして、信仰を自分にとって有効なものだと考えて、対価として献金するのです。しかし、自分のいのち、能力、時間を神から与えられたものとして「忠実で賢い管理人」(ルカ12・42)として生きる人には、「主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。」(同44)。
殆どの人が自分の人生を自分のものだと考え、思い通りに生きたいと考えます。だから愚痴や不満が出るのです。そして、自分の都合で人に要求・期待するので軋轢が起こるのです。
幸せになりたい、思い通りに生きたい、という願いは自然なものです。ただ、それは罪びとにとってのものです。だから世の中は不満不平だらけなのです。
政府も、役人も、会社も、経営者も、自分たちの権益のために動いています。国民の為になど言葉上のごまかしに過ぎないことに騙されてはいけません。家族や友人でも、自分の都合で生きており、他の人のために犠牲になろうということがない人々が多くなっています。そういう人々には、神の裁きがあり、世の中は悪くなる一方なのです。
「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」(15)。その覚悟が決まったら、もはや悩みも、問題も、不平や不満もありません。
「死の後先」、「老いの後先」、「誕生の後先」、「結婚の後先」、「子育ての後先」、「事業の後先」、「信仰の後先」(櫻井師)、「聖定と預言の後先」、「管理の後先」、「神の子の後先」、「母マリヤの後先」、「東方の博士達の後先」、「喜びを告げられた人々の後先」と続けてきました。多くの信仰者にとって、先立つ信仰と行動が大したものではないので、後に来る祝福も結果も期待できるものではないのが現状でしょう。
しかし、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(17)と神は励ましてくださいます。自らの過ちを認め、悔い改めれば、古いものは過ぎ去り、新しい祝福が拡がります。神を信じることを諦めてはいけません。
Ⅱコリント5章10~17節
- 5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。
- 5:11 そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかしそれが、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。
- 5:12 私たちは、またしてもあなたがたに自分を推薦しているのではありません。むしろ、あなたがたに私たちのことを誇る機会を与え、心ではなくうわべを誇る人たちに応じられるようにしたいのです。
- 5:13 私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。
- 5:14 というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。
- 5:15 キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。
- 5:16 ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
- 5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
投稿者プロフィール
最新の投稿
- 自然写真2025年1月22日東京スカイツリー
- お知らせ2025年1月19日2025年1日19日 聖日礼拝
- 今週のメッセージ2025年1月19日「敬虔をもたらす御力」 Ⅱペテロ1章3~11節 今週のメッセージ
- 今週のメッセージ2025年1月12日「勝利をもたらす忍耐」 へブル10章30~39節