「聖定と預言の後先。」 マルコ福音書7章25~30節

日本のクリスチャンは厳格な制度や躾に影響されてきたのでしょうか、神への信頼が少ないように感じます。教えを守り、清く正しく生きることが、キリスト教のように捉えられ、関わり合わないように警戒されます。基本的に親との関係が冷たいものであったことや、丁寧かつ愛情をもって育てられなかったことが原因と思われます。

 聖定とは、神が創造の前に定めた計画ですが、キリスト教改革派では非常に重視されている教理です。「神はあらかじめ定めた人をさらに召し、召した人たちをさらに義と認め」(ローマ8・30)と選びを強調し、「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。」(Ⅰペテロ2・8)とされます。

福音派は、信仰義認や万人祭司主義が特徴で、私たちが属する福音的ペンテコステ派では、「イエスは言われた。できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9・23)というように、信仰を強調します。しかし、神に委ねるよりも、個人的なお願いを繰り返す祈りが極端なものとなることもあります。最近の神学は両極端を避ける傾向になっています。

 預言についても、果たして確定されてしまうのか、確認してみましょう。ヒゼキヤ王が病気になって死にかかった時、預言者イザヤが来て、「主はこう言われる。『あなたは死ぬ。治らない。』」(Ⅱ列王20・1)と告げると、ヒゼキヤは「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目に適うことを行ってきたことを。」(同3)と大声で泣きました。すると、「わたしはあなたの祈りの声を聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたを癒す。」(同5)と癒されました。「あなたの寿命にもう十五年を加える。」(6)と言われると、調子に乗って、「主が私を癒してくださり、私が三日目に主の宮に上れるしるしは何ですか。」(8)と聞いています。

 かなり調子の良いお願いです。「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」(同18・5)とあるので神のお気に入りだったのでしょうか。

 「神はえこひいきする方ではなく」(使徒10・34、ローマ2・11、申命記10・17、Ⅱ歴代19・7)とあるので、ひいきではなく、悔い改めさせる為の配慮だったことがわかります。

名君と言われたヨシヤ王は、神殿で律法の書を見つけました。女預言者フルダは、「その書物に記されている全ての呪いをもたらす。」(Ⅱ歴代誌34・24)。その後、「あなたがこの場所とその住民について神のことばを聞いた時、あなたは心を痛めて神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって自分の衣を引き裂き、私の前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる―主のことば―。」(Ⅱ歴代34・27)。 つまり、預言は悔い改めを促すためのものであったのです。人が罪を犯し、間違った行動をした時、神は優しい言葉を掛けるよりも、悔い改めを迫るのです。ところが、この後、ヨシヤ王は高慢になり、神が付いていると自負してエジプト王に戦いを仕掛け、死んでしまうのです。

 今日の聖句は、イエス様の厳しい拒否として非常に印象的なところです。ギリシャ人の女が、娘の癒しを求めてイエス様の前にひれ伏してお願いするのですが、イエス様は、イスラエル人を「子どもたち」とし、この女の娘を「子犬」と軽んじ、癒しをしないと断定したのです。ところが、この女は、自らを「食卓の下の子犬」としても受け入れ、それでも「子どもたちのパン屑」として、娘への祝福を求めたのでした。

 ヨハネ4章のサマリヤの女への伝道も、「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」(4)という理由で始まっています。この「ツロの地方へ行かれた。」(マルコ7・24)も異邦人の地です。イエス様がツロに行かれた唯一の理由は、この女に会うためであったようです。

 皆さんは、神から答えがない時、或は、祈りが拒絶されてもっとひどい状態になった時に、どのように対応するでしょうか。試練の時ほど、その人の信仰が明らかになります。高慢な人、頑固な人には、神の祝福は届きません。私は、するべきことやへりくだることをしないで、神に願ってばかりいる人の祈りが聞き入れられないことを知っています。 この女の謙遜さと信仰は見事でした。彼女の娘は癒されたのです。

 イエス様の十字架と復活以前は、神の祝福はイスラエル民族に限定されたもので、選民として神の存在を顕現させていたのです。「福音がすべての民族に宣べ伝えられなければなりません。」(同13・10)と変わったのです。選民思考はもはや古きものとなったのです。

 私たち人間が、勝手に聖定を定義してはなりません。預言も安易に受け留めてはなりません。神の御心の偉大さは人間には理解しえません。

マルコ福音書7章25~30節

  • 7:25 ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。
  • 7:26 彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。
  • 7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
  • 7:28 彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
  • 7:29 そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
  • 7:30 彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた。

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MYoshi
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