「よ~く考えよう。信仰の後先。」 ヨハネ福音書21章1~7節

本日は幼児祝福式。主にある子どもたちの成長を感謝し、主の祝福を祈ります。しかし、考えることを知らない子どもたちが心配です。IT利用で危険性が増大しています。考える教育が必要です。この礼拝の時も、考えることの一例にしたいと思います。

   Ⅰ 甦りのイエスとガリラヤ湖

 考える課題として、ヨハネ二一7。十字架に架けられた主が三日目に甦り、ガリラヤ湖畔で三度目に弟子たちに現れた時の出来事。 ガリラヤ湖。主が宣教の初め、漁師のペテロとアンデレを弟子に召した所です(マタイ四18〜19、マルコ一16、ヨハネ四18〜20)。主が十字架に架けられた後、故郷に帰った弟子たち七人が舟に乗り、夜の漁に出かけたものの、不漁で一匹も取れず、夜が明けてきた頃です(ヨハネ二一2〜3)。復活の主が岸辺に立って(ヨハネ二一4)、「舟(プロイオン)の右(デクシオス)の部分(メロス)の中に網(ディクツゥオン)を投げよ(バッロウ)。さらば見出す(ユウリスコウ)べし」と言います(ヨハネ二一6)。

 事実、彼らが網(ディクツゥオン)を投げる(バッロウ)と、魚(イクスウス)の大群の故に網(ディクツゥオン)を曳き上げる(エルコウ)ことができなかったのです(ヨハネ二一6)。当初、「本職の漁師が一晩かけても一匹も獲れなかったのに、素人が何を言うか」という気持ちでいたのに相違ありません。尋常ではない結果に、「この方は復活の主に違いない」と気が付いたのでしょう。ゼベダイの子・ヨハネも、ペテロに向かって、「主(キュリオス)です!」と声を上げます(ヨハネ二一7)。ペテロは、裸(ギュムノス)だったので、上衣(エペンドゥテース)を腰に巻きつけ(ディアゾーンヌミ)、海(サラッサ)に自分自身を投じた(バッロウ)のといいます(ヨハネ二一7)。これが、本日のテーマです。何故、ペテロだけが海に飛び込んだのでしょうか? よ〜く考えてください。考えることによって、神の言葉の本質が見えてきます。

   Ⅱ 漁師の姿

 1)裸の漁師。新約聖書の時代の古代ギリシャ・古代ローマ時代の壁画やモザイク画には裸の漁師が描かれています。日本でも、昭和中期頃までは、漁師が裸でした(千葉県九十九里の漁村の記録写真集。九十九里いわし博物館の写真パネル)。国の重要文化財『海の幸』(青木繁作、石橋美術館蔵)は、十人の裸の漁師が手に銛(もり)を持ち大きな魚を担いで歩いている、千葉県館山の漁村の様子を描いています。世界中で、漁師が裸で漁をするのが通常だったのです。 多くの聖書は、「裸なので、上着を着て、湖に飛び込んだ」と訳しており、多くの解説書も「裸だったので飛び込んだ」と書いていますが、歴史上の事実に照らすと違うようです。

 2)「上着(ヒマチオン)」と「下着(キトオン)」。「上着を着て」と訳す聖書は「下着は着ていた」という前提で、その「下着」とは褌や下着パンツでしょう。福音書で「上着(ヒマチオン)」と「下着(キトオン)」は、主の十字架の場面(ヨハネ一九23)、強制執行される債務者の場面(マタイ五40)、山賊にあった旅人の場面(ルカ六29)に出てきます。「上着(ヒマチオン)」より「下着(キトオン)」の方が価値があったのです。「下着(キトオン)」は、素肌に肩から腿の辺りないし膝上までを覆う普段着で、「上着(ヒマチオン)」は出かける際などに下着(キトオン)の上に着る上半身の衣類です。下着(キトオン)を着て漁はできません。漁師は裸です。漁をしていたペテロが裸なのは当然。ペテロが漁師と承知している主がペテロの裸を云々することはないでしょう。他の弟子たちも裸だったはず。

   Ⅲ ペテロの裸

 多くの聖書が「上着」と訳していますが、「上着(ヒマチオン)」とは別の「上衣(エペンドゥテース)」です。動詞が「(腰に)巻きつける(ディアゾーンヌミ)」なので腰布のようなものと想像。「上に(エピ)」+「衣服(エンドゥマ)」の類推で「上衣(じょうい)」と訳しました。医学用語に、脳室の表面を覆っている「上衣(じょうい)(細胞)」(英語では「ependyma」)があります。家庭用品品質表示法施行令では、上下に別れた外衣のうち上半身に着用するものの総称が「上衣(じょうい)」とされています。ここでは、裸を覆う衣類という意味で「上衣(エペンドゥテース)」としました。「裸だったから飛び込んだ」と解されていますが、上衣(エペンドゥテース)を腰に巻きつけ(ディアゾーンヌミ)た以上、裸ではないので、飛び込む必要はないはず。飛び込むつもりなら、上衣(エペンドゥテース)を巻きつける(ディアゾーンヌミ)必要はないはず。多くの聖書は「飛び込んだ」と訳しますが、「自分自身を投じた(バッロウ)」です。「飛び込む」は自動詞ですが、「投じる」は他動詞。この「投じた(バッロウ)」は「網(ディクツゥオン)を投げよ(バッロウ)」の「投じる(バッロウ)」と同じ。ペテロは主の「網(ディクツゥオン)を投げよ(バッロウ)」に呼応して、「自分自身を投じた(バッロウ)」。ペテロは、最初から、主に、「我、汝を、人間(アンスローポス)(を漁る)漁師(アリエウス)に任命する(ポイエオウ)」(マタイ四19、マルコ一17)と言われていました。魚を漁っていたペテロは、主と悟った瞬間、「何、魚を漁っているのだ。人間を漁るべきではないのか!」とのお叱りを感じたのかもしれません。

 ペテロは、懸命にも、直ちに、自らを人間を漁る網と看做して、海に投じたのです。主のお言葉に対する見事な呼応です。

 (以下、よ〜く考えよう!)

ヨハネ福音書21章1~7節

  • 21:1 その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。
  • 21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
  • 21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
  • 21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。
  • 21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」
  • 21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
  • 21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。

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MYoshi
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