「白髪の恵み、老いの満足。」 へブル人への手紙 11章8~19節

「敬老の日」は「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日(国民の祝日に関する法律)。「社会に尽くしてきた」がポイント。「老人の日」は「国民の間に広く老人の福祉についての関心と理解を深めるとともに、老人に対し自らの生活の向上に努める意欲を促す」日(老人福祉法)。老人には「知識と経験を活用し、社会的活動に参加する」ことが求められ、「希望と能力とに応じ、社会的活動に参加する機会を与えられる」のです(老人福祉法)。 社会に大きく寄与し、豊富な知識と経験を表したアブラハムの生涯から敬老について考えます。

   Ⅰ 白髪の恵み

 「良い白髪」の「良い」は、神が創造の成果を評価する言葉です(創世記1:31)。被造物が神の御心に叶う、神の秩序を担うものになったこと。それは正義、善、美、幸です。戦後、宗教否定の唯物論が科学的とされました。昭和年代では宗教の意義は残っていました。平成、令和と、唯物論の度合いが深まりました。結婚式もしない、神社や寺院や教会に行ったことがない、お盆と正月の風習も廃れ、葬式も行わず、墓も取り壊すなどとなりました。物が満ち溢れ、生活は豊かに、贅沢になりましたが、高齢者の評価は、社会評価、自己評価とも低いものです。

 唯物論では、経年変化、賞味期限、消費期限、耐用年数など、歳と共に悪くなるという思想です。「敬老の日」も、法律の規定とは異なり、不用品・廃棄物扱いではないでしょうか。昭和30年では、定年55歳、平均寿命65歳、子供が40代で、社会貢献を終え、代替りして世を去り、子が親の業績と財産を引継いで事業を継続する定型でした。寿命が長くなって社会構造が崩れたのです。

 アブラハムは、75歳で神の召しを受け、信仰により行く先知らずで従いました(ヘブル11:8)。一族の長テラの長男として生まれ、妻サラを娶った以外のことは分かりません。テラは月神崇拝者でしたから、アブラハムの歴史は神の言葉に従う献身から始まるのです。行く先を知らずに出て行くのが信仰です。先が分かって行くのなら打算です。信仰とは、全知全能の神を信じ、自分の全運命を神に託すことです。地上の寄留者として天幕生活(9,13節)は不安定です。世人は不安定を嫌い、安定を求めて、権力に頼ります。寄らば大樹の影ですが、大樹には落雷の危険もあります。アブラハムは、地上ではなく、神の都を目的地と定めていたのです(10,14,15,16節)。この世に終点を定めるから、世人の苦労は大きいのです。

ルカ16章に、貧乏人ラザロと金持ちの、この世とあの世が対比されています。地上の時間は有限ですが、天上の時間は永遠なので、目的設定を誤ると大変です。この世の労苦は天国における地位や奉仕のための訓練です。天国は遊園地ではなく、神の王国なのですから。

子を宿すことができなくなったサラにイサクが与えられ、アブラハムは神の民の父祖となりました(11,12節)。神の言葉を信じたことによるのです。アブラハム100歳の時です。なお、アブラハムは137歳で、後妻ケトラを娶り、アラビアの諸部族となるジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデアン、イシュパク、シュアハを産んでいます。ミデアンはモーセが四十年居留することになる地です。

   Ⅱ 老いの満足

「満足」「満ち足りた」とは「全うする」「達成する」という意味です。日本では、労働者も物と同じように、「定年」という消費期限が設けられ、経年で価値が下がると考えられてきました。政治の世界で、会社や諸団体で、教会や教団で、「老害」と言って高齢者を排斥する動きがありましたが、若者に交代して事態が悪化した事例も多々あります。

漢字「老」は知恵と経験に満ちたという意味。「若」は巫女が両手を挙げて舞い神託を求める象形で、「幼い」「足りない」「少し」という意味です。足りない知識で、古いが深い知識の高齢者を侮蔑するのは誤っています。若い大臣や若い知事の失態など。欧米では、本人の能力によらず、年齢によって雇用を止めることは禁止。労働など人間の行う業務には、経験を積み、知識を蓄え、技術を磨き、思考を重ね、勘を育て、手順を覚え、関係性を構築することなどが必要です。団塊の世代の定年退職後、企業の技術部門、経理部門、経営部門、事務部門で、トラブルが多発したことが知られています。「満ち足りた老年」とは、生きた生涯の年数ではなく、自分の存在が社会に貢献できたこと、自分の知恵や経験が役に立ったことの反射効です。 

   Ⅲ 恵みと満足

「白髪の恵み」とは、神によって導かれた人生、齎された老齢という恩恵の告白です。加齢を否み、老齢を嘆くのは神を知らない者の悲劇です。神によって支えられ、育てられ、生かされて来た人生を歓喜することです。「老いの満足」とは、神を信じ、神の召しに応え、神に全てを委ねてきた人生の表現です。信仰の告白です。

「老い」とは年齢ではなく、現在の姿です。現在の自分が、基督と一体であるという確信、これこそが「老いの満足」でしょう。

へブル人への手紙 11章8~19節

  • 11:8 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。
  • 11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。
  • 11:10 堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。
  • 11:11 アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
  • 11:12 こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。
  • 11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
  • 11:14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。
  • 11:15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。
  • 11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。
  • 11:17 信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。
  • 11:18 神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、
  • 11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。

創世記25 章 8 節

  • 「アブラハムは、良い白髪と満ち足りた老年で、息絶え、死んだ。」

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MYoshi
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