「信じた通りになる。」マタイ8章5~13節

挨拶の締めくくりに「お祈り申し上げます。」「お祈りします。」と儀礼的に書かれていることがありますが、その人が一体どのような宗教をもって、どんな神に祈っているのかと考えます。実際には、祈っていないのだと思います。或は、書いた時に、少し信仰心をもった程度かもしれません。日本人の宗教心というものはそんな程度ですが、クリスチャンが「祈っています。」と語ったら、本当に祈らなければ偽りを言うことになります。しかし、実際には多くのクリスチャンがこの世の風潮に染まっており、そのような安易な言葉遣いは、神に嫌われます。

問題があったり、不幸があったり、病気や手術の時に、「祈ってください。」と言われることがありますが、その本人が神に期待するよりもむしろ医療に期待したり、解決を期待していないようなことがあります。私自身は、そのように頼まれれば祈りますが、本人が神に依存していないことを感じて、嫌な思いになることがあります。人生を軽く見ていて、解決や勝利を信じておらず、「どうにかなるさ」と考えているようです。

「美辞麗句」とは、「巧みに美しく飾った言葉。うわべだけ飾った内容の乏しい、また真実味のない言葉の意。」とありますが、神の名を借りた虚言は神が非常に嫌うものです。軽々しく信仰を論じても、信仰者ぶっても、自らの言葉の通りに生きていなければ、「罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(12・37)。神に喜ばれる信仰者とは、そのような自らの言葉や神への態度に非常に繊細です。

今日の聖句にある百人隊長は、ガリラヤ地方の王であるヘロデ・アンティパスにつくローマの軍人であり、異邦人を毛嫌いするユダヤ人からは嫌われていました。使徒10章にカイザリアにいたコルネリオという百人隊長が「敬虔な人で、家族全員と共に神を恐れ、民に多くの施しをし。いつも神に祈りをささげていた。」とありますが、同じ人かもしれません。ともかく、異邦人なのに、ユダヤ人よりも敬虔に神を信じていたのです。当時の宗教指導者は言葉巧みな偽善者で、イエス様は、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義に優っていなければ、あなたがたは決して天の御国にいけません。」(マタイ5・20)と批判しました。マタイ6章には、「人に見せる為の善行」(1)、「人に褒めてもらうための施し」(2-4)、「人に見せる祈り」(5-8)、「人に見せる断食」(16-18)、「蓄財」(19-20)、などをイエス様は、偽の信仰者として糾弾しています。神が求めるのは、真摯な信仰者です。

「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6・33)こそ、信仰の奥義です。

この百人隊長は、「私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます。」(6)とイエス様に懇願します。百人隊長と言えば、権威も力も富もある指導者ですが、イエス様のところにわざわざ出向いて膝まづくのです。イエス様が、彼の家に「行って治そう。」と言われると、ユダヤ人が異邦人の家に行くことを穢れとして忌避することを知っている百人隊長は、「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは癒されます。」と強い信仰を示すのです。

彼は、神の権威を信じていたのです。軍隊では、彼の言葉の通りに部下は動きます。ですから、イエス様が真実の神であることを信じており、天地を支配する神ですから、わざわざ家に来られなくても、イエス様の言葉さえいただければ、癒しの業が起こることを信じたのです。

私自身、祈りによって多くの癒しの業をしていただきましたが、すべて真剣であり、21日間の断食の祈りもありました。「祈っている。」といっても、続けて一時間も自分の癒しの為に祈ることのできない人がいて、その代わりに病院には何時間も掛けて通います。良子師の大腸がんは、手術もしましたが、栄養療法によってコラーゲンリングができており、また多くの祈りをしました。私自身も、脂肪肝となり、不整脈を起こしましたが、薬によらず治しています。この世の業をしないわけではありませんが、それ以上に神に掛けることが大事だと心から夫婦共に信じております。

信仰を強調し、無理に従わせようとすると、不信者は激しい反撃をします。イエス様でさえ、殺されました。しかし、信仰者であるとうぬぼれても、実際には信じていない人が多いのです。私は什一献金をする人の経済的祝福を祈っていますが、確かに、彼らの収入は増えています。今年は、私の献金額を超えた人が二人いました。まだ、家内には敵いませんが。「十分の一をことごとく、宝物蔵に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。わたしが、あなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注ぐかどうかを試してみよ。」(マラキ3・10)とあります。人の目を気にしてではなく、神を崇め感謝して什一献金をする人は、神がその名に掛けて祝福して下さるのです。

献身的に奉仕をしたら、間違いなく神の祝福を受けます。心を注いで祈ったら、必ず叶えられます。きちんと什一献金をしたら、豊かな者となります。「あなたの信じたとおりになるように。」

マタイ8章5~13節

  • 8:5 イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
  • 8:6 言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」
  • 8:7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
  • 8:8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
  • 8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
  • 8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
  • 8:11 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
  • 8:12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
  • 8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。