「真の父の下で安らぎを得る。」マタイ福音書11章25~30節

先々週、父親が父なる神に代わって子どもに善悪の基準を身に付けさせる使命と機能を委ねられていることをお話ししました。先週、それは理屈や正当化を超えたものであるが故に、いかなる言い訳や自己弁護をも許さない厳しい躾けとして父自身を恐れさせることが大事であると話し、だからこそ、父は孤独なのだと説明しました。但し、孤独を覚悟しなければならないとしても、孤立はいけません。そして、人には明かせないものがあることを身に着けるからこそ、私たちの背後におられる父なる神に寄り頼むのです。

他人のプライバシー(他人に知られたくない私事)や情報を、安易に話してしまうことは、事業者では刑罰になり、個人でも損害賠償を受けることになるでしょう。夫婦間の問題や親子間の問題を安易に他人に話す人がおりますが、そういう人は見えない神に祈る習慣がない人でしょう。

或は、夫婦の間でも、親子の間でも、言ってはいけない種類の話があります。人を見下げる言葉、不幸を仮定する言葉、みだらな言葉、暴力的な言葉、人生に関する絶対的な判断、自己卑下、そういう類な言葉は、信仰者としての未成熟を現わすものであって、決して言わないようにすることが品性の成熟には必要です。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16・8)とあるように、魂の救いを得て、聖霊なる神が内住すると、愚かな言動はできなくなるものです。

もし、愚かな言動が変わらない人がいるならば、真剣に聖書を読み、祈り、聖霊の導きを求めることです。この世の人々と同じような人、「正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。」(Ⅰコリント6・9)。神の国に行く人か、どうかは、神の国の人は区別できますが、この世の人は、その違いがわからず、あたかも神の国の人のようにふるまっています。私たちの教団の教理では、「救いの証明」として、「義とまことの聖を備えた生活である。」と語っています。クリスチャンらしくない言動をする人は、クリスチャンではないのです。

厳しいことを言っているのでしょうか。残念ながら、これらのことを無理だとか、否定するならば、あなたには聖霊は内住していないのです。しかし、実際には厳しいことであり、父親の在り方と通じる厳しいことです。

 「賢い者や知恵のある者には、隠して」(25)とあるように、この世の知恵で生きる者は、自分の都合の良いように人生をやり繰りして生きようとします。お金が溜まるかもしれません。地位も名誉もあるかもしれません。自分の好き勝手に美味しい物を食べ、好きな所に行き、好きなことができるかもしれません。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12・15)。「愚か者。お前の魂は今夜おまえから取られる。・・・自分の為に貯えても、神の前に富まない者はこの通りです。」(12・20.21)

 私は自分の人生は神に捧げたものと考えています。むろん、それほど聖くはなく、それほど成熟した者でもなく、それほど能力のある者ではないことは、自らわきまえております。しかし、意識としては、できる限り、神に捧げて生きたいと努力しています。牧師給以上のものを献金し、什一献金の額以上のものを神の働きに献げています。そうすると、神が更に私を豊かにして下さり、神の働きをするために力も知恵も富も与えてくださいます。現在の私の働きや仕事は、普通の人の数倍はあります。意識としては、全て神の栄光の為にという思いが私の心には強くあります。だからこそ、私は神に祝福されているのであって、自らの能力や知恵によるものであるとは考えられません。

 昔、自分の思いと努力でひたすら頑張った時に、疲れ果て、ストレスで怒りやすくなり、不整脈で死にそうになりました。なんで、神様のために働いているのに、こんなに苦労ばかりするのかと病の床で神に文句を言いました。そんな時に、この言葉が私に語り掛けてくださったのです。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 自分の思い通りではなく、イエス様に委ねて生きることを少しずつ学んで身に着けてきました。イエス様は頑固ではありません。私が頑固だったのです。イエス様は、私に叱咤激励して働かせようとはなさいません。祈りの中でしなければならないことを、しなくても良いこと、他の人に任せたほうが良いことを知るようになりました。祈りと聖霊に導かれると、あり得ない程祝福されます。

 牧師であり、社長であり、事務長であり、患者の会の理事長であり、教団の監事であり、4つの教会の主管者であり、親であり、夫であり、ガーデンの管理者として将来にも備えています。多くの人々への責任と配慮があり、その重荷は凄いものです。しかし、私の主キリストが、心優しく私のくびきを負ってくださいます。なぜなら、私のこのようなくびきは、主イエスを愛し、従う者としてのくびきだからです。私は、「魂に安らぎ」を得ています。

 「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇23・1)。

「まことに、私のいのちの日の限り、慈しみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。」(23・6)

マタイ福音書11章25~30節

  • 11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
  • 11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
  • 11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
  • 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
  • 11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
  • 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」