「父は孤独。」ルカ福音書15章17~24節

 岩淵まことさんの「父の涙」の歌詞は以下の通りです。

心に迫る 父の悲しみ 愛する一人子を十字架に付けた 人の罪は 燃える緋のよう 愛を知らずに 今日も過ぎていく 十字架から 溢れ流れる泉 それは 父の涙 十字架から 溢れ流れる泉 それは イエスの愛

 父が静かに見つめていたのは愛する一人子の傷ついた姿 人の罪を その身に背負い 父よ 彼らを赦してほしいと

 これは、魂の救いというものを知らない人には意味の分からないことです。なぜ、一人息子を十字架に付けるのでしょう。それが人の罪を許すためだとしても、なぜわざわざ十字架の刑を受けなければならないのでしょうか。そして、それをなぜ、父なる神は黙認するのでしょうか。

 先週は、「父の立場は機能的なもの」とお話ししました。昔から、男たちは家族を守るため、国を愛するため、信念を果たすため、戦い、そして死んでいきました。実際、男の役割と女の役割は全く異なります。この世は罪の社会であり、弱肉強食、むしろ、戦うための体力、根性、知恵が必要であり、組織に対する忠義が求められました。

 7月には、婦人会でコミュニケーション講座を持ちますが、大変失礼ながら、男性にはコミュニケーションも優しさも歴史的には二次的なものであったのです。コミュニケーションは女性には必須なものですが、男性は不得意です。もし、男が交流を身に着けても、強い者には従わなければならず、よこしまな者には騙され利用されるだけでした。男の子を観察すると、勝つことや自尊心に関心があり、女のことは全く違うことに気が付きます。

 日本は平和な国です。もはや頑固や口下手な男は、女性だけでなく男性にも社会にも評価されません。しかし、実際には、権力闘争や争いは表面化では、相も変わらず激しいのですが、それは肉体による戦いではないので、策略や知恵が必要になってきています。

 そのような男性の虚弱化と共に、家庭や躾の基準があいまいになってきました。社会での仕事や規律も、真実よりも言い逃れや建前が通るようになってきました。北朝鮮の船が国境から100キロも入った港で住民によって発見された時の海軍の誤魔化しや隠蔽が非難されています。日本の自衛隊機への隠蔽やごまかしは強気で乗り切ろうとしましたが、韓国住民の目撃の前では誤魔化しきれません。全ての大統領が殺されたり、犯罪者となる韓国では、もはや権威も信義もうつろなものとなっています。間違いを認めないで白を切るということは、社会正義の崩壊であり、それは女性に対する暴力が蔓延する50歳以上の男性たちの責任です。

 日本でも、損得や見栄が基準となって行動する人々が多くなりました。苦労や困難があるとすぐに逃げ出すのです。先週、「父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」(へブル12・7)と語りましたが、現代では「父に懲らしめられた子がいるでしょうか。」と逆になっています。懲らしめられるどころか、親に暴力を振るったり反抗したりする子や大人が多くなっております。「愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。」(箴言1・7.8)父が訓戒をし、母が教えることがなされない家庭が増えているのです。子どもが反抗しても、何の指導もせずにご機嫌を取ったり、甘やかす親が増えているのです。そんな子が後になって「彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。」(箴言1・28)。

 父親や指導者はご機嫌取りでは、子どもや部下の放蕩を生み出すという結果をもたらします。箴言を読むと父親は、子を戒めるということが当然なこととして書いてあります。だからこそ、「父と母を敬え。」(申命記5・16)とあり、そのことによって子は「幸せになる」のです。

 しかし、現実の生活では、それほどうまくはいきません。この聖句の放蕩息子の話のようです。「父のところには、パンの有り余っている雇人が大勢いる。」(17)とあるので、父親はよく働き有能で配慮のある主人であったようです。母親のことは出てきませんが、父親は息子たちを妻に任せて仕事を一所懸命していたのでしょう。父の教育と訓戒が足りなかったようです。母親は、息子たちを男として尊重していたので、息子たちは頭に乗って育ったのでしょう。それでも、「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」(18.19)と告白するのですから、信仰は母によって植え付けられていたようです。そして、愛情もって育てられていたのでしょうが、やはり甘やかされていたことに間違いありません。

 次男は、大金を持って遠い国に行き、すぐに騙されて放蕩を身に着け、財産を使い果たしてしまいました。そして、働くと豚の世話をさせられ、十分な食事も与えられないので、豚の餌であるイナゴマメを食べようとしました。金のある時はチヤホヤされたのに、使用人となると無慈悲に酷使され、だれも相手をしてくれません。まさに弱肉強食の現実を悟り、悲嘆に暮れた時に、経営者としての父の優しさ気前の良さに気が付きました。父は、強く優秀だからこそ、人に優しく出来たのです。その父の下で働きたい、父の仕事と教えを学びたいと願ったのです。

 現実は、イエス様のたとえ話のようにいくとは限りません。それでも、父が覚悟して、厳しい戒めをしなければ、子どもは社会で生き抜けないのです。「話せばわかる。」というのは、日本社会の建前です。罪びとに対して、話してわかるほど、世の中は容易くはありません。むろん、コミュニケーションは学ばなければならず、交流を多くの人と深めなければなりません。しかし、その前提は、神の戒めを身に着けているということを忘れてはいけないのです。残念ながら、ノウハウだけを身に着けようとする人が多いようです。

ルカ福音書15章17~24節

  • 15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
  • 15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
  • 15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
  • 15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
  • 15:21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
  • 15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
  • 15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
  • 15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。