「誰が自らの過ちを悟れるでしょう。」詩編19編7~14節

この詩篇の6節までは自然啓示として、神の栄光を褒め称える自然を語りますが、実は多くの人がそのような神の存在と一般的な罪の確認だけで済ませています。神の言葉である聖書によらずして、神の前の罪を教えられることはなく、聖書を読まずして謙遜にも聖められることもないのです。そして、一般的な罪認識だけで過ごし、誰もが罪を犯しているのだからしょうがないだろう、という考えで生きているのです。

「【主】を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1・7)とありますが、全地を造られ、裁きをされる神を恐れることは、普通の人にはできないのです。そして、聖書を読むことや祈りをすることを「さげすむ」のです。ですから自称クリスチャンでも、毎日みことばを読まずにいられる人は、聖霊に導かれた人ではないのです。聖霊に導かれた人は聖めを求めずにはいられないのです。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。」(ヨハネ15・7)とあるように、神の国の人は過去の洗礼を受けたとか、教会に通っているということではなくて、神のことば聖書を慕い求め、神の国に生きることを熱心に求めている人なのです。

このように生きる人は、「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6・33)ます。この世の人は、そうではなくて、欲望を求めます。富、快楽、自己実現など、世の中に溢れています。イチロー選手が引退しましたが、なぜあのように尊敬されたのでしょうか。それは、手を抜いて自堕落に生きるのではなく、どのような時も節制と自己訓練に励み、自らの向上に努めていたからです。彼はクリスチャンではないでしょうが、自制を身に着け否定的な言葉を吐かなかったことは見事なことです。

「あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4・と神はカインに忠告をしているのですが、彼は憤ったままに弟のアベルを殺してしまいます。ピエール滝という芸人が20代からコカインを吸っていて逮捕されました。犯罪であることを知りながらも20年以上やめられずに偽りの人生を過ごしていたのです。ただ、恐ろしいことは、麻薬を使っている人を罰しても更生させることができないので、それを犯罪とせずに医療でケアすることを義務化させるだけで、麻薬の売買だけを犯罪とする国があるそうです。つまり、罪を相対的なものにしているのです。神なき社会の特徴です。

認知症の高齢者を殺したり、多くの障害者を殺した人が、その方が社会には益であるからと言っています。ナチス・ヒットラーが障害者や劣等民族を皆殺しにしようとしたことと同次元です。正当性があるならば人を殺しても良いとして、証拠をねつ造する事件も起こっています。

魂が救われ、神の国に行くということは、保証された立場ではありません。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。」(Ⅱペテロ2・20)とあるように、教会や信仰に躓いた人々が、堕落していったことを多く見ています。躓いたというならば、もっと信仰を深め、聖く謙遜に歩めば良いのですが、人に躓くというのは、自らの罪を認めていないからです。偽りのクリスチャンの特徴が批判的になるということです。 

「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16・8)とあるように、聖霊の介在なしには、神の前の罪というものはわからないものです。そして、神を信じていると言いながら魂の救われていない人々は、これら「罪、義、裁き」について異議を唱えるのです。なぜなら、わからないからです。ところが、救われている人々は、人の罪についても、自らの罪についても、ただ悔い改めるだけで人を批判する思いは起こらないのです。

7節から9節にあるように、救われている者にとって聖書は、「たましいを生き返らせ」、「わきまえのない者を賢くし」、「人の心を喜ばせ」、「人の目を明るくし」、「主への恐れはきよく」、「主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」のです。だから聖書を読むことが何よりも喜びであり、救われていない者にとって聖書を読むことは人生訓であり、自らの教養のためなので、義務的に読むのです。

 聖書の言葉は厳しいこともあり、わかりにくいこともあるのに、信仰者にとっては「多くの純金よりも好ましい。蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」のです。「戒めを受ける。」のに、嫌がったり、恐れたりするのではなく、「それを守れば、報いは大きい。」と受け取るのです。そして、「数々のあやまちを悟る」、「隠れている私の罪」、「傲慢の罪から守ってください。」と「全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなる」ことを願うのです。

 このような人々が神の国への道を進む人なのです。「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。」神の国への巡礼の道を進んでいくのです。

 私は経営者ですから、多くの人と会い、接し、世話をしたり、雇ったりしなければなりません。正直言って罪びとばかりであり、自分の関心、自分の利益を求める人ばかりです。しかし、だからこそ、自分が救われていることの喜びと感謝が溢れ、そのような人々を取り成しながら、仕えていく方途を探って生きるのです。この罪の世において、自分の魂が救われているという事実は、「金よりも、純金よりも好ましい」ことなのです。

詩編19編7~14節

  • 19:7 【主】のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、【主】のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
  • 19:8 【主】の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、【主】の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
  • 19:9 【主】への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。【主】のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
  • 19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
  • 19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
  • 19:12 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
  • 19:13 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
  • 19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主