「神の国は義と平和と聖霊による喜び。」ローマ14章1~19節

教団の弘報で韓国のキリスト教系異端が大規模な活動を繰り広げているので注意するようにとの日本福音同盟からの通知がされました。調べてみるとこの教会のすぐ傍でもグッドニュース宣教会という教会を始めていました。そのHPには正統派の福音を宣べ伝えているとあり、他にも多くの異端が正統派らしく名乗って日本でクリスチャンを対象にして勧誘させると報告されていますから注意が必要です。

韓国ではクリスチャンが約3割と23%の仏教徒よりも多く、47%が無宗教ですが、異端が多いのが特徴です。「韓国プロテスタントはキリスト教が一般的に敵対視したり忌避する傾向があるシャーマニズムを神秘主義に引き込み、巫俗的神秘主義と韓国の風土が合致して教会の急成長をもたらした。」とウィキペディアでは説明されています。巫俗(ムーソク)とは、朝鮮土着のシャーマニズムです。神懸り的に現世の祝福や繁栄を求め、排他的にスポーツなどでも勝利を願うことが他国のクリスチャンには違和感を与えます。むろん、素晴らしい信仰者もおります。 

飲食店に行って、自然なものを丁寧に調理して作っているという宣伝が書いてあるところがあります。けれども、その値段でそんな安く作れるはずがない、という論理的な判断の下で、味わってみると、やはり人口調味料に砂糖の甘味で誤魔化しているということがあります。食べ放題の焼肉屋ではタレで味を誤魔化していたり、解凍を急いで肉が水っぽかったりすることはよくあります。能書きは良くても、実際には不味い、ということをわからないで食べているのは、やはり騙されているわけです。電話サギなどもありますが、吟味して生きる習慣を身に付けないと健康を害し、騙されたり、失敗をしたりします。

 異端の特徴は、祝福と繁栄であり、また、そこから逃れられないように教育し洗脳します。日本社会は教育によって人々の能力を向上させ、問題を対処できる力と悪や犯罪に打ち勝つ力を付けさせるとしてきました。その教育は、実践を離れた知識教育でした。先週は、創造論のセミナーを持ちましたが、その知識を信じ込んで、進化論を信じている人々を攻撃してはならないとは、講演でも話されたことです。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Ⅰコリント8・1.2)

 この信仰が本物かどうかを試そうとするのは、まだその人自身がイエス様を知らないからです。信仰について知ろうとするよりも、神ご自身との出会いを持つことが大事です。ノウハウではありません。

 「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3・20.21)。罪というものは、自己中心であり、自分の満足、自分の欲求充足、自分が幸せになることを願うことに結びついています。ローマ書は、「信仰の従順に導くため」(ローマ16・26)に書かれたとあります。従うということは、納得がいったら従うということではありません。納得がいったらそれをするのは、あたりまえのことです。信仰によって従うということが、信仰者がなす信仰の奥義なのです。その信仰の従順とは、自分の得にもならないこと、納得のいかないことがあるものです。それでも、神を愛し信じ、人を救うために自己犠牲を敢えてすることができるのです。

 自己犠牲と十字架を負って生きるということができないキリスト教は、本物ではありません。但し、指導者がそれを信者に強いて、自らは忍従の日々を送っていない場合には、異端の可能性があります。

 残念ながら、キリスト信仰というものは、自己実現ではありません。自己否定です。「信仰の弱い人」を責めて変えていこうとするのは、自己都合です。教会にも日々の生活にも、思い通りにならない厄介者はいるのが当然です。子供もなかなか面倒なものです。弱くて、世話が掛かり、強情で、勝手に泣き叫びます。その子どもを裁いたら、神に受け入れられないのです。

 病弱で健康でなく食事が細い人、或は神経質な人がいるものです。賢くなく、不器用で、注意欠陥の人もおります。改善したら、それこそ私たちにとって都合が良いわけです。しかし、聖書は、無理に良くしようとするな、と戒めています。これは凄い奥義です。

 失敗し、不器用で、或は病気やケガで死ぬことがあったとしても、信仰者にとっては問題ではありません。「健康こそ第一!」などというのは、異端か未信者です。この世の風潮に惑わされてはいけません。神を信じるということは、死のうが生きようが、うまくいこうがまずかろうが、関係ないということなのです。だから、「神の国は飲み食いのことではなく」なのです。

 「義」とは、神との正しい関係です。神を想う時、神に喜ばれることを意識したら、それが義です。「平和」とは、思うとおりに行かなくても、失敗挫折続きでも、平安があることです。「聖霊による喜び」があれば、他の喜びはなくても、気になりません。自己主張など愚かなものです。

ローマ14章1~19節

  • 14:1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
  • 14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
  • 14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
  • 14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
  • 14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
  • 14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
  • 14:16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。
  • 14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
  • 14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
  • 14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。