「キリストはいのちのパンです。」 ヨハネ6章48~58節

 ヨハネ6章の前半では、イエス様の病の癒しを見て男だけで5千人の人々が集まり、人々のお腹が減っているのを見て、「どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか。」(ヨハネ6・5)とイエス様が尋ねています。過越しの祭りの為に各地からエルサレムへの旅人ですから、自分たちでは持っていません。「二百デナリのパンでも足りません。」(6・7)は200万円くらいですから、当時の商いではガリラヤ湖の周辺にそんな供給はできなかったでしょう。

 しかし、少年の持つ五つの大麦のパンと二匹の魚を祝福してイエス様が分け与えられると、群衆は満たされ、「余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。」(6・13)のでした。人々は湖の反対側までイエス様を追います。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」(6・26.27)。

 このイエス様の訓戒に対して、人々は「神のわざを行う為には、何をすべきでしょうか。」(6・28)と、やはり奇跡やしるしを起こして、目立とう、儲けようと考えているのでした。人々にとっては、モーセが天からマナを降らせたように、不自由なく食料が与えられることを求めるという自分勝手さです(31)。人は、神の国を求めるというよりも、むしろ、地上の利得を求め、そのついでに死んでも天国に行けたら良いな、と調子よく考えているのです。

 イエス様が「神が遣わした者をあなた方が信じること」と答えているのに対して、「私たちが見て、あなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。」(6・30)と信仰を持つことによる利益を求めます。実は、多くの信仰者が信仰による利得を求めているのです。奇跡や癒しを体験しても、神に従い十字架を負う信仰者になる人は少ないものです。信仰によって利益を求める人は、神を信じ従うのではなく、信仰によるメリットを求めて「神を信じてあげる。」という意識をもつのです。その代価として献金をし、奉仕をしているから当然という考え方であり、御利益宗教となります。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしない」(6・35.36)というのが信仰者の現実であることをイエス様は糾弾します。

イエス様が大工の子であり、育った様子を知っている、と考えても、イエス様が為さった技や、語った教え、そして超自然の現象を見て、神の子と信じることは普通の人にはできないことは当然です。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」(6・44)とあるように、真に信仰を持つことができるのは、神に選ばれた人だけなのです。

 生まれながらの人が、神を信じ、従い、犠牲を払って、そして自我を捨てて信仰生活を送るということはできないのです。ですから、そういう人は、必ず信仰生活に躓きます。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ9・33)とあるように、信仰者は躓くことなく、失望することなく歩むのですが、魂の救われていない人は、信仰生活を送ることができなくなるように神が躓かせるのです。

 「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(6・51)。人は躓き始めると何にでも文句を言い、不信を募らせます。神を信じて生きるという義性的な生活が嫌になってくるのです。或は、もはや抜けられない信仰生活に苛立ってくるのです。

 イエス様の教えを、生きる糧、いのちの源と悟る人だけが、「永遠に生きます。」(6・51)。大事なことは、悔い改めるか、不遜になるか、選択をするということです。私の人生には、多くの苦労があり、困難があり、自分の主義主張を変え、自分の立場や名誉や維持を捨て、それでも神を信じてきました。そういうことを乗り越えてきたからこそ、自分が神の恵みによって、確かに信仰者になっているという確信を持つことができます。

 「弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(6・60-63)

 「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(6・66)。終末とは、そういう時代です。

ヨハネ6章48~58節

  • 6:48 わたしはいのちのパンです。
  • 6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
  • 6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
  • 6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
  • 6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。
  • 6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
  • 6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
  • 6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
  • 6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
  • 6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
  • 6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」