「知識は人を高ぶらせる。」Ⅰコリント8章1~13節

執事・執事補にショートメッセージを作るように伝えました。説教には、説教者自らが御言葉に人格的な呼応をした宣言が必要です。そして、その修練は、説教者を御言葉に立つ成熟した人格者に形成します。説教に対する応答は、以下のようなものです。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12・1.2)。つまり、説教には自らの信仰告白と共に、会衆を共に神への捧げものとなるべく導く働きかけの要素が大事なのです。

ところが、日本人はその説教を知識や教養として捉えようとする傾向があります。そして、情動を揺り動かす説教を聞くと怒り出す人もおります。「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。」(ヤコブ1・22.23)

聖書を読むとか、祈るとか、「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」(ヤコブ2・14)。キリスト信仰とは、自らの悟りに導くものではなく、他の人との関わりの内に愛と奥義を体得するものです。私はしばしば「祈りなさい。」と言いますが、それは祈るという行為をするということではなく、「祈りを通じて、何を為すべきかを神に教えられなさい。」、ということです。

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。…わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。…わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。」(マタイ23・13.23.27)。イエス様は律法学者を嫌いました。理屈をもって人を裁き、批判し、高慢だからです。説教を吟味するようではなりません。

人が罪を犯したのは、誘惑に負けたからですが、「その木は賢くしてくれそうで好ましかった。」(創世記3・6)からで、神に問われた時に、すかさず言い訳をしています。自分を義として罪を繕うのには、知識が必要ですが、この世は、この知識を満たし、「神はいない。」、「道徳規範は処世的なもので、力があれば好きなことをやって良い。」などという考え方を定着させています。それは、「偽善の律法学者」と同じ類のもので、神を信じない不誠実なものの特徴です。このような偽善に対して、神の裁きは容赦がありません。

今日の聖句は、偶像に献げた肉を食べるか否かということです。聖書信仰を持てば論理的には、偶像やこの世の神はいないので、偶像に献げた肉だからといって、怖がる必要はありません。しかし、気味悪がり、怖がる人がいたら、その人を労わり、食べない方が良いということです。実は、こういうことは日常で多くあります。そして、心の鈍い人、他の人に対する思いやりの祈りのない人は、「兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。」(8・12)

コロナワクチンの接種についても、同じようなことが起こっています。人に迷惑を掛けることや、世話をされることが悪いことだという考え方が社会を覆っているために、遠慮して死んでいく人がいるのです。病気の人や高齢者は邪魔だという考え方を持っている人がいるのです。

『AI崩壊』という映画を観ました。「2030年。高齢化と格差社会が進展し、人口の4割が高齢者と生活保護者となり、医療AIが全国民の個人情報などを管理していた。ある日、AIが突如として暴走を開始、“人間の生きる価値”を勝手に選別し始め、生きる価値がないと判定された人間の殺戮を開始した。」というものですが、現実にそうなりつつあります。知恵と力のない弱者は虐げられる社会になっていきます。そういう時に、知識など全く役に立ちません。

「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Ⅰコリント1・21)。多くの人が、自分の存続、義を求めて生きていますが、神を求めることをしません。神は、高慢な者、驕り高ぶる者を嫌います。私たちは謙遜に助け合って生きてゆこうではありませんか。神に人に奉仕をする意識がないならば、神を知ることもないのです。

Ⅰコリント8章1~13節

  • 8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
  • 8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。
  • 8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
  • 8:4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
  • 8:5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、
  • 8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
  • 8:7 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。
  • 8:8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
  • 8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。
  • 8:10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。
  • 8:11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。
  • 8:12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
  • 8:13 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。