「弟たちも救われ祈りに専念した。」使徒1章3~14節

先週、「イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。『…、自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。』兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(ヨハネ7・3-5)と語りました。しかし、復活後の記述では、母マリヤと一緒に「イエスの兄弟たちと共に、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」(14)とあり、その後、回心して忠実な信者となっていることがわかります。

弟ヤコブは、その後エルサレム教会の初代監督となり、使徒15章のエルサレム会議では、指導者として「異邦人を悩ませてはいけません。」(19)と割礼を受ける必要のないことを決定しています。ヤコブの手紙は彼が書いたもので、全教会に対する指導をしています。使徒ヨハネの兄ヤコブは既にヘロデ王に殺されています(使徒12・2)

先週、母マリヤが自分の理解できないことを心に留め、思い巡らしていたことをお話ししました。私たちは、自己中心ですから、自分の思い通りに人に期待し、人を動かそうとします。或は、人を批判し、否定します。日本の会議では、成果を出せない人を批判し、指導や降格をさせる内容が多く、建設的なことが議論されていません。議会でも同様です。そういう人の攻撃や批判の会話が多いと、家族では子供たちは結婚しようとは思わず、仕事もしたくなくなります。結局のところ、滅びの連鎖を繋げていくのです。

子どもと言えど、親と言えど、友人・知人と言えど、人の心はわかりませんし、勝手に心を探ろうとすることは傲慢です。ましてや、定義付けたり、裁いたりする権利はありません。

私がクリスチャンになり、人と迎合しなくなり、更には牧師になると言ったら、親しい人々から批判攻撃されました。自分の心情、価値観を説明してもわからないと思ったので放っておきました。ダビデが、「わが子ソロモンよ。あなたの父の神を知り、全き心と喜びの気持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの動機を読み取られるからである。」(Ⅰ歴代誌28・9)と諭したことを2日に語りました。息子たちの反逆や愚かさを嘆いた末に、ソロモンに語ったのです。

ともかく、イエス様の弟たちは救われて忠実な弟子になりました。ところが、日本では、自分の部下や家族に忠実さを要求する人が多くおります。これも人に要求することではなく、自らの心次第です。外面を良くしようとすると、内面が悪くなります。クリスチャンに自己満足はありません。聖めは我らの強い願いであり、動機です。

「水のバプテスマ」は私たちがこの世に死んで、神の国に生きることの願いであり、聖めの信仰告白です。イエス様は、「聖霊のバプテスマ」(5)を約束されました。聖霊のバプテスマは異言の祈りによって証明されるとするのが我が教団です。「異言を話す者は自分の徳を高めます」(1コリント14・4)、「私が異言で祈るなら、私の霊は祈る」(同14・14)とあり、聖霊のバプテスマ、そして異言の祈りは私たちを内側から聖めます。

なぜ、イエス様の昇天の後、弟子たちは一心に祈り続けたのでしょうか。彼らは、イエス様の弟たちと同様、自らの罪深さ、弱さ、傲慢さをわかっていたからです。

祈るかどうかで、その人の信仰深さや聖めがわかります。祈らない人は、自分の判断、知恵に従って生きています。聖霊が導くということをわかっていないので、まだ生まれながらの人です。祈るというのは、願い事をすることではありません。神に聞き、神に従う為には祈る以外にはないのです。そして、異言の祈りは、その人の霊性を聖くします。

異言の祈りを長く続けても、欲望の祈りをする人がいますが、その人は霊性は強くても、聖いわけではありません。信仰生活とは、聖めへの渇望です。神の国へ行けるかどうかの約束手形ではありません。イエス様が「神の国のことを語られた。」(1・3)のは、罪によって汚れたり惑わされたりすることのない国です。

「信仰がわかった。」、「真理がわかった。」という人がいますが、それでは救われたわけではありません。救いとは、自らの罪深さ、自己中心を悔い改めた人が与えられるものであって、悟りではないのです。そして、悟りか、救いかの明確な区別は、その人が聖められているかどうかで証明されるのです。祈っているといっても、それがお題目を唱えることや願い事の繰り返しでは、聖められはしません。

「教会員にも子どもにも期待はしていない。」と私の信念を言ったら、怒った人がいました。私は、それらの人の為、祈り愛しますが、どのようになるかは、本人次第です。神でもできないことを、人が期待してはいけません。残念ながら、自己主張の強い人は、殆ど救われてはいないか未熟なように思います。聖めとは、自我を捨てていくことだからです。そういうことがわかっていても、人を変えることはできない葛藤を、神も抱いているのだと思います。

使徒1章3~14節

  • 1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
  • 1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
  • 1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
  • 1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
  • 1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
  • 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
  • 1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
  • 1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
  • 1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
  • 1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
  • 1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
  • 1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。