「主は私たちを苦役から導き出す。」出エジプト6章1~9節

この箇所は、モーセがエジプトのファラオにイスラエルの民を解放させよと伝えた後、却ってイスラエルの人々がモーセを責めた後のことです。「全能の神」として、まだイサクを与えられていないアブラハムに現われ、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」(創世記17・1.2.)と宣言されました。ヤコブはヨセフに「全能の神がカナンの地ルズ(べテル)で私に現れ、私を祝福して、私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』(創世記48・3.4)。「全能の神」(エル・シャダイ God Almighty)は、このようにして、現在も、カナンはイスラエル国の領土としているのです。

そのような「全能の神」が、「主」(ヤハウェ Lord)として「あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。」((6)と語り掛けてくださるのです。ところが、民の側が、労苦をしてエジプトから脱出するよりも、このまま奴隷として過ごす方が良いとして「彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。」(9)のです。

多くの信仰者に愛される詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」は、罪の奴隷、苦役の奴隷から解放され、神が主として私たちを守り導いてくださった祝福の体験と生活から共感されます。

信仰を持ちながら、自ら労苦を続けている人は、電車や車の中で重い荷物を持ち続けている人のようです。「人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。」(箴言10・22)とありますが、働くのが好きな人は、人生の楽しみ、神を信じて生きることの喜びを体得していないのです。

苦役は、自らの人生を自らのものとしようと願わなければ、ついて回ります。つまり、苦役の奴隷、罪の奴隷の状態です。日本の労働環境、そして社会環境は奴隷育成のようなものです。学校教育では教師に従順であることを指導され、仕事では会社や上司に従順であることを命じられます。私自身は、将来を志した時に、そのような仕事をしたくないと考え、また学校で従順を強いる運動部には絶対に入るまいとしました。

ドフトエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』で「人間という哀れな動物は、もって生まれた自由の賜物を、できるだけ早く、譲り渡せる相手をみつけたいという、強い願いだけしかもっていない」と言い、フロムは『自由からの逃走』で「現代における自由からの逃走の主要な社会的通路はファシスト国家におこったような指導者への隷属であり、またわれわれ民主主義国家に広くいきわたっている強制的な画一化である。」と述べ、ドイツがヒットラーのファシズムに洗脳されたことを嘆きました。

私は、教会員の皆さんをよく見守っています。教会の中で自らの賜物と教会の必要を認識して、それぞれが自らの判断と他の人との協力の中で奉仕をし教会を建て上げていることを嬉しく思っています。教会とは、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4・12.13)というものであって、奉仕をしなければ決して信仰的にも神の奥義にも成長することはありません。

教会の働きの中で分からないことも、未熟なこともあるでしょう。しかし、それは牧師の命令で動くような奴隷的なものであってはならないのです。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(4・16)。

スノーデンが「監視大国 日本」と警告を発しています。報道機関が情報を操作して日本人にとって都合の良いものにして流し、報道の自由度ランキング72位となっています。政府の都合悪い情報は隠蔽し、国民の個人情報は勝手に集めているのにも関わらず、多くの日本人は、「自分は悪いことをしていないから監視されても構わない。」と思っているのです。香港は、中国の進出や侵略がありながら、完全に統制されるまで気が付かず、今や香港人に自由はありません。台湾は、それを察知して指導者の下で懸命に自由の国を保つために戦っています。

救いを求めるということは、自分が罪びとであり、罪の奴隷であることを自覚して、そこからの解放を求めることです。サルが檻から出て自由を体験しても、どうしたらよいのかわからず、餌も自分で捕れないので檻に戻るようなことではいけません。私たちは、「苦役から救い出す」主に導かれて、自由を獲得していかなければなりません

出エジプト6章1~9節

  • 6:1 それで【主】はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」
  • 6:2 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは【主】である。
  • 6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、【主】という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
  • 6:4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。
  • 6:5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。
  • 6:6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。
  • 6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。
  • 6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは【主】である。」
  • 6:9 モーセはこのようにイスラエル人に話したが、彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。