「強くあれ。恐れてはならない。」ヨシュア1章1~9節

今日は新入生祝福式でした。皆さんの新しい歩みの祝福を祈ります。

私のことを話しますと、人見知りが強かった私は幼稚園に行かず、小学校に入学しても知り合いは近所の男の子だけでしたが、彼にも相手にされず、独りぼっちでした。2年になって担任の先生の病気でクラスが分けられた時、友達を作ろうとふざけて授業中もおしゃべりをするようになり、目崎先生が「あなたがこんな子になってしまって、私の入院が悪かったのね。」と嘆いたことが忘れられません。5・6年の担任はえこひいきの底引先生で、貧乏人の私は完全に蔑まれました。中学入学前の嘆きは、そのような嫌な教師にめげている自分への悔い改めでもありました。これまでの自分を知らない人の中で、自分を変えようと決心したのです。

今日の聖書は、偉大な指導者モーセを受け継いだヨシュアの話です。ヨシュアが知っているのは、40年のイスラエルの民を率いて指導した卓越した指導者の姿です。指導者が弱みや優しさを見せるべきではないということは、それを知って手を抜いたり、反発したりする人々が必ずいるからでもあります。それらをモーセは、エジプトのパロとの闘い、反発する人々との戦いの中で身に着けたのです。指導者と副では全く違います。まして、有能であってもスタッフとは全く違います。

モーセは自分がへブル人であることを知った後、奴隷であるへブル人を鞭打つエジプト人に怒り、殺してしまいます。そのことがばれているのを知って、モーセは王子の身分を捨てミディアンの野に逃れます。40歳でありながら過激だったのですが、それこそ指導者に必要な情熱でした。

羊飼いとしての40年は、モーセに忍耐と鍛錬、そして根性を与えたに違いありません。動物や植物の世話というものは、日々続く労苦が要求されます。人を導く指導者になる為には、簡単に諦めたり、自分勝手な生き方をすることはありえないのです。そういうことを運命とし、天性と考える人がいますが、そうではなく、日々の自らの決断が人生を形成していくのです。神は私たちの日々の歩みを見つめ、私たちの信仰に応じて導きをしていくのです。だからこそ、ヨシュアに「強くあれ。」と言われ、血縁や能力を過信する人々にイエス様は「あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(マタイ3・9)と言われたのです。

カナンの地を偵察した12人のうち10人は、「その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく」(民数記13・28)、「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」(31)と報告します。しかし、ヨシュアとカレブは、「もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。…ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。」(民14・8.9)と叫びますが、恐れで興奮した全会衆は、「二人を石で打ち殺そうと言い出した。」(10)。その時、主の栄光が現れて、「カレブとヨシュアの他は、お前たちを住まわせると誓った地に、誰一人入ることはできない。」と宣言します。

アマレク軍が戦いに挑んで来た時、「モーセはヨシュアに言った。『男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。』(出エジプト17・9)と将軍として指導することを命じ、モーセが手を上げ続けると戦いに勝ったことを、「このことを記録として文書に書き記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。」(17・14)として、次の指導者になるヨシュアへの英才教育を始めています。

モーセが十戒を与えられるためにシナイ山に上った時は大祭司アロンと一緒でした(出19・24)。次に40日間シナイ山にいる時は「モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。」(24・13)。そして降りる時、「ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。」(出32・17)として、民衆が指導者のいない時には堕落して快楽にふけり、気の弱いアロンをも惑わしているのを見るのです。

子どもを躾けるにも、人を指導するにも厳しさが必要です。罪や悪事や言いつけを守らなかった子どもに対して親が厳しく躾けなかったら、必ず罪を犯す人間になります。人間は罪びとなので、指導しないで罪や堕落から自らを守るということはないのです。最近は、多くの牧師が神の愛を、悔い改めの必要なしに伝え過ぎています。そして、教会には自分中心で、他人の助けを要求する人が増えています。そのようにして教会は、世の人々から見ても魅力のない、馴れ合いの場になっているのです。

人に優しく、助けや見守ることができる為には強くなければできません。人の魂を救うためには、その人の罪や悪から出る行動や感情を恐れてはできません。人のご機嫌を窺っていては、神の働きをすることはできません。自分の弱さや無能力を嘆いていては、神の業をすることはできません。私自身は、自分の弱さや罪、そして失敗はすべて神の御手に委ね、為すべきことをしていくだけであると観念しました。

「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの行く所どこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」(新改訳2017)

ヨシュア1章1~9節

  • 1:1 さて、【主】のしもべモーセが死んで後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。
  • 1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
  • 1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。
  • 1:4 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。
  • 1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
  • 1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
  • 1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
  • 1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
  • 1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」