「大いなる救いの為。」 創世記45章4~13節

 私は9人兄弟の末子で可愛がられて育ちましたが、結婚して神学校に行くという招待状を出した時、長姉以外は誰も来ず、祝いもなかったことに驚きました。親しかった同級生も来ず、皆から喜ばれていると思ったのに、牧師になると伝えた途端に私への対応が全く変わったのです。恨む気持ちも怒る気持ちもなかったのですが、人の心は信用できないものだとつくづく悟りました。私がリーダーであり、能力があると思う時には、私におべっかを使い、そうでないと思うと、簡単に捨てるのです。両親は黙って私たちを支えてくれたのが身に染みて感謝でした。

 12兄弟の11番目で、「イスラエルは、息子の誰よりもヨセフを愛していた。・・・あや織りの長服を作ってやっていた。」(創世記37・3)と甘やかされたヨセフが、兄たちに殺そうと企まれ、エジプトに奴隷として売られた思いは如何なるものだったかと思います。先週、ヨセフは決して兄たちを恨んでいない、憎んでいない、とお話ししました。しかし、信仰者であるヨセフは人の心の弱さや罪性をしっかりと把握したのです。

 兄たちは、ヨセフの好待遇を見て恨み・嫉み、殺そうとまでする憎しみを持ちました。エジプトで奴隷となった時の主人は信用して任せてくれていたのに、欲望の強い妻を御することができず、その言葉を信じてヨセフを罪人にしました。最低の待遇の監獄に入れられても誠実に歩み努力して管理を任されても、夢を解き明かした献酌官と料理長は、彼のことを大事に思わず、「あなたが幸せになった時には、どうか私を思い出してください。」(40・14)という約束を違えてしまいます。その他にも奴隷となった時の人々の言動、囚人となった時の言動をヨセフはよく観察して、人の罪深さや心の弱さ、そして自分勝手ということを確認するのです。

 私は牧師として38年が経ちました。罪を悔い改め、救いを受け入れても、その後に自己中心の悪の芽が出て、身を滅ぼしてしまう人々を多く見てきました。彼らはそのような時に、必ず人や私を非難して正当性を唱えるのですが、黙ってみていると、自ら崩壊していきました。救いとは、自らの罪性を認めて悔い改め、主イエスキリストによる十字架の救いを自らの為と受け入れることであって、自らの義(正しさ)を主張したら、神の義は得られないのです。つまり、クリスチャンとは、他人を責めることはできない立場なのです。教団総会に最初に出席した時、大論争をしていた牧師同士が、休憩時にはお茶を飲みながら冗談を言っているのに驚いたことが忘れられません。意見は言い合いながらも、喧嘩をしているのではないのです。信者と未信者の違いを思わせられました。

 「ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しい言葉で彼らに言った。」(42・7)。そして、彼らをきつく扱います。兄たちは、自分たちのことを「正直者」(11)とヨセフに言ったけれども、「末の弟は今、父と一緒にいますが、もう一人はいなくなりました。」(13)と平気で嘘を言っています。「嘘も方便」という人々が日本には多く、その嘘の犠牲者が弱者です。神は、嘘や方便を許しません。先週、「信仰者は、神との人格的なつながり、信頼を持つのです。」と語りましたが、信仰者でない人々は、「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」(ローマ1・18)という恐ろしさを悟らないで、嘘を言い、ごまかし、罪を犯しているのです。

 「彼らは互いに言った。『ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。』」(42・21)。「ヨセフは、彼らから離れて、泣いた。」(24)。しかし、帰国しても、彼らは父に自らの罪を告げていないのです。

 再び食料を買いにエジプトに来た兄たちは、未だに金で人生をやり取りできると考えていました。しかし、ヨセフの計略によってベニヤミンの袋から盗品とされる盃が見つかった時に、全員が帰って罰を受けると告げます。ユダは、父の愛するヨセフを殺してしまったのに、更に愛するベニヤミンまでも奴隷にしてしまったら父が悲しみのあまりに死んでしまうので、自分が代わりに罰を受け奴隷となると申し出ます。「このしもべは私の父に、『もし私があの子をあなたのところに連れ戻さなかったら、私は永久にあなたに対して罪ある者となります』と言って、あの子の保証をしているのです。」(44・32)。これはイエスキリストが私たちの罪の代わりとなって、「罪ある者」として十字架に掛かり、私たちを救う預言でもあります。第4子のユダが、このようにして祝福の系図を継ぐことになります。

 今日のテーマの「大いなる救い」は、まず、①この兄弟の魂を救うため、⓶イスラエル民族を存続させる為、③世界的国家エジプトで文化と歴史をイスラエル民族が身に着ける為(世界に影響を与える国になる為に)、④主イエスキリストに繋がる救いの歴史を立てる為、の救いであり、確かに大いなる救いです。

 父のヤコブは、49章の預言で子供たちのことを見抜いています。魂が救われ神の国につながったのは、ユダとヨセフしかいないようです。そして、民族として残っているのもユダ部族だけです。

創世記45章4~13節

  • 45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
  • 45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。
  • 45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。
  • 45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。
  • 45:9 それで、あなたがたは急いで父上のところに上って行き、言ってください。『あなたの子ヨセフがこう言いました。神は私をエジプト全土の主とされました。ためらわずに私のところに下って来てください。
  • 45:10 あなたはゴシェンの地に住み、私の近くにいることになります。あなたも、あなたの子と孫、羊と牛、またあなたのものすべて。
  • 45:11 ききんはあと五年続きますから、あなたも家族も、また、すべてあなたのものが、困ることのないように、私はあなたをそこで養いましょう』と。
  • 45:12 さあ、あなたがたも、私の弟ベニヤミンも自分の目でしかと見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。
  • 45:13 あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉とあなたがたが見たいっさいのこととを私の父上に告げ、急いで私の父上をここにお連れしてください。」