「ヨセフは試練にへこたれない。」 創世記41章37~44節

 ヨセフは17歳の時に、突然兄たちに裏切られて奴隷に売られてしまいました。ヤコブの正妻の子としての可愛がられた裕福な生活から、自由のない悲惨な生活に落とされてしまったのです。普通なら愚痴を言い、不満を漏らし、慣れない忍従の生活に自暴自棄になるでしょう。自分の境遇に不満を漏らす人が落ちこぼれて不幸になるのは、ダメな人間の特徴です。人を非難しても、楽になることはなく、人を責めても状況は悪くなるだけです。幸せになる人と不幸になる人の違いは、実際にはそこから始まります。そして、努力もせず、忍耐もせずに自らの人生を崩壊させていくのです。

 ヨセフの稀有な特徴は、最も悲惨な没落でも絶望しなかったことです。17歳の青年ヨセフは、良い奴隷であろうと決意したのです。当教会の理念では「主の弟子は状況に左右されず聖霊に聞き従い、神を信じ人を信じて人々の救いと解放をもたらす。十字架に死んで神と共に生きるとは、自分と人々の罪からくる咎を覚悟し信仰と希望と愛とを持って福音の祝福の中に生きることである。」とありますが、ヨセフは奴隷であるという状況に左右されずに、神を信じ人を信じて努力を重ねたので「主が共におられ」(39・2)、「成功する者」(2)となったのです。

 私自身は12歳の時に鴨長明の方丈記を読んで、「よどみにうかぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」との言葉に涙し、人生が泡のように虚しく過ぎるとしても自ら満足の行く生き方をしようと決心したのでした。貧しい職人の倅でしたが、努力を重ねて強く生きてきました。聖書を読み救われて神の国への望みを持った時の感激を忘れることはできません。ですから、その後も多くの試練に愚痴ることはありません。神の国という希望を得たのですから。そういう面でヨセフの心情を想い見ます。私が想像するに、彼は愚痴ったり、人を責めたり、虚しく過ごすのが嫌だったのだと思います。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16・7)とありますが、うわべを装う人を神は嫌い、心が神に向いて実直に生きる人を神は好み、「共におられる」(2)のです。

 ヨセフはそのようにして善意をもって努力をし、祝福されました。ところが、そのヨセフを主人の妻が性的に誘惑します。ヨセフは、「そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」(39・9)と考えますが、その女主人は強引に誘惑します。ヨセフが逃げると、腹を立てた彼女は、無実の罪でヨセフを告白します。主人も「妻の言葉を聞いて、怒りに燃えた。」(19)とあります。誠実であることを知り信頼していたヨセフは、簡単に疑われて監獄に入れられるのです。ところが、それでも、「主はヨセフと共におられ」(21)とあります。

 つまり、誠実に働いても裏切られ、そして無実で刑に服しても、ヨセフは信仰を捨てなかったのです。信仰を捨てるということは、希望を捨てるということであり、自暴自棄になり努力をしなくなるということです。そういう人に神の祝福はありません。「神を信じる。献金をする。無料奉仕をする。」などということは、どの宗教でも行います。つまり、聖書信仰とは直接結びつかないことです。「信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。」(ローマ5・1)。信仰者は、神との人格的なつながり、信頼を持つのです。

 罪人を多く見ている監獄の長に信頼されて「すべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。」(39・22)。「主はヨセフと共におられ」(21)という言葉は、ヨセフが主と共におられるような生活と信仰を持ち続けたということです。ラッキーとか選びということではありません。要するに、誠実な努力を続けたということです。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22・37)が律法を要約した大事な戒めであるとイエス様が言われましたが、そのようにすると人間の能力は飛躍的に伸びるのです。タラントの例えのように、神は自分の能力を開発しようと努力しない人を罰するのです。

 ヨセフは、監獄に入った献酌官と料理官の夢を解き明かしますが、それも忘れられ年月が過ぎます。「信仰が試されると忍耐が生じる」(ヤコブ1・3)とありますが、信仰者でない人は忍耐が生じません。そして試される試練もありません。ヨセフは、多くの試練に耐え抜き、13年間の逆境の中で能力を増し、研ぎ澄まされ経験を蓄積してエジプトの宰相になったのです。

 私は、最近、歌や音楽、ダンスなどの水準が非常に高くなってきたことを感じています。カラオケも点数が付くようになり、ビデオやネットも普及して技術を競うようになりました。スマホの扱いも高度になる一方です。ホームページの作成も簡単に良い物が作られるようになりました。この世の人々もかなりの努力をしています。

 半面、政治家や経済社会の指導者が旧態依然とした価値観や体制を強調して刷新を押さえつけています。宗教界も同様です。宗教経営学の課題を説教の用意をしながら、神に導かれた思いです。キリスト教も、教会も、新しい者会の波に乗り、人々をヨセフのようにリードしていかなければなりません。

創世記41章37~44節

  • 41:37 このことは、パロとすべての家臣たちの心にかなった。
  • 41:38 そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」
  • 41:39 パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。
  • 41:40 あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」
  • 41:41 パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」
  • 41:42 そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。
  • 41:43 そして、自分の第二の車に彼を乗せた。そこで人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。こうして彼にエジプト全土を支配させた。
  • 41:44 パロはヨセフに言った。「私はパロだ。しかし、あなたの許しなくしては、エジプト中で、だれも手足を上げることもできない。」