「私の羊飼いであられた神」創世記48章3~16節

 ヤコブは、神と戦い、腰の関節を打たれて動けなくなっても決してギブアップしないので、イスラエルという名前を付けられました。そういう資質、性格はヤコブ固有なものですが、悔い改めていないということが、その後の悲劇に繋がってきます。人が性格を変わるということは、なかなか難しく、御霊によってでなければできないものですが、信仰者を含めて多くの人が、性格を変えて品性を高めることを自他に求めます。

聖書は「肉のわざは、・・・は神の国を相続できません。」(ガラテヤ5・19-21)と言い、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(同22-23)として、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望と共に十字架に付けたのです。」(同24)。つまり、意思や努力によって変わることはできないのですが、御霊に導かれることにより、自分の罪性を嫌い、捨て去ることによって、神の国の属性が果実として形成されると教えます。

「ヤコブは兄に近づくまで、7回地にひれ伏した。」(創世記33・3)。欲望の強い者ほど、死や敗北を怖がり、それを避けるためにはひれ伏すくらいのことはします。エサウが弟との再開を喜び、贈り物を辞退しても、「兄上のお顔を見て、神の顔を見ているようです。」(33・10)と美辞麗句を語り、兄との同行を避け、その部下の助けも辞退します。ヤコブは、人の善意や笑顔の裏にある冷酷さ・残虐さを体験する多くの苦労をしてきたのです。ようやく、エサウは死海の南東のセイルへ帰り、ヤコブは危害を受けることなく、ヨルダン川を渡って、シェケムの町の手前で宿営をします。

シェケムでは、その族長の息子がヤコブの娘ディナに惚れ求婚をしますが、その実の兄シメオンとレビがその町民を騙して皆殺しにし、略奪をします。ヤコブは、「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」(35・2.3)と、息子たちの為に神に執り成し、信仰を教えます。ヤコブは、息子たちの行動を見て、罪や敵意の結果が災いとなることを悟っていくのです。そして、結局は、神の守りと祝福にすがるしかないことを教えるのです。

愛する妻ラケルは、末っ子のベニヤミンの出産んで死に、その後、父イサクも死にます。ヤコブは生き甲斐を失いながらも、「誰よりもヨセフを愛していた。」(37・3)。ヤコブにとっては愛する妻はラケルだけであり、その息子だったからです。「ヨセフの兄たちは、父が兄弟の誰よりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。」(同4)

甘やかされて育ったヨセフは、自分に兄たちが「伏し拝んだ」(同7.9)夢を見たことを、そのまま兄たちに伝えます。兄たちは怒り、「彼を殺そうと企んだ。」(同18)。しかし、長男ルベンの執り成しで「銀20枚でヨセフをイシュマエル人に売った。」(どう28)。イエス様はユダに銀30枚で裏切られていますが、ヨセフは17歳だったからでしょう。ヨセフが獣に殺されたと息子たちに騙された「ヤコブは自分の衣を引き裂き、荒布を腰にまとい、何日も、その子のために嘆き苦しんだ。」(34)。「私は嘆き悲しみながら、我が子のところに、ヨミに下って行きたい。」(35)。愛する子どもの死は親にとっては断腸の苦しみですが、ヤコブは騙され続けるのです。

エジプトの首相になったヨセフは、兄たちが人を騙すことを後悔し、「彼の血の報いを受けているのだ。」(42・22)と悟り、罪を犯すことを軽々しく思う人の愚かさを身に染みてわかるために、良い罠を掛けます。しかし、父ヤコブは苦しみ、末っ子のベニヤミンをエジプトに送ることを拒みます。この地域一帯の飢饉は7年続くので我慢できずに、エジプトに食糧の支援を求めに行くことになります。その時、ユダが「私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあなたを立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。」(43・9)と父に訴えます。日本人は、クリスチャンでさえも、悔い改めるだけで赦されると安易に考えている人が多いのですが、罪を犯したら、罰を受けることを覚悟するのが悔い改めです。むろん、悔い改めなければ、災難は続くことになります。この災難に気が付かず、人生はそんなものだと捉えるのが罪びとなのです。ユダは、ヨセフに対して、自らを奴隷にするように訴えるのです(44・33)。

ヤコブは、エジプトのファラオに対して、「私の生きてきた年月は僅かで、いろいろな災いがあり」(47・9)と自らの人生を振り返っています。そして、「ヤコブはファラオを祝福し」(10)と、堂々と神の祝福を唱えています。そして、今日の聖句があるのです。

「ずっと私の羊飼いであられた神。すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。」(15.16)。自分の愚かさ、罪深さ故に災いがあったことをヤコブは悟っていました。そして、それでも神はヤコブを「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。」(15)が祝福し、羊飼いのように見守り導いてくださったのを知っていました。ヤコブは、自らの罪を悔い改め、その故にある災いを受け入れたのです。そして、悔い改めて羊飼いのような神にすがる者に、神は祝福を注いでくださるのです。愚かな羊は、羊飼いにすがることをせずに離れ、自分勝手な道を歩んで滅んでいくのです。

創世記48章3~16節

  • 48:3 ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して、
  • 48:4 私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』
  • 48:11 イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」
  • 48:12 ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。
  • 48:13 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。
  • 48:14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。
  • 48:15 それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。
  • 48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」