1月24日 「はい、行きます。」 創世記24章48~58節 

私の母は20歳の頃、上野の尾久で下駄屋をやっていた23歳の父の所へ嫁に来ました。それまで全く会っていなかったそうです。4人目の昭二兄が生まれた1939年には、父が外遊びをして家に帰らず心労で乳が出ずに「昭二は大きく育たなかった。」と不憫に思っていたそうです。戦争を避けて前橋に移り、父は軍需工場で働いていて多くの人を世話したそうです。何人もの人が恩人として新年には挨拶にきていました。私が育った頃は、仕事だけを熱心にする頑固な職人でしたが、母は黙ってよく働いていました。優しく温順な母で、近所のおばさんが家にお茶を飲みに来るのに接待をしていました。私を産んだのは42歳の時で9番目です。

今では、親が結婚を決めて本人同士は会っていない、などということはあり得ないのですが、昔はそんなものでした。「成田離婚」と言われたように愛し合って結婚して新婚旅行で破綻して離婚することが多くありました。人間は自己中心な存在だから、それを自制することができなければ結婚などうまくいくはずがありません。男尊女卑が社会でも歴史的にも通常ですが、結婚して子供が生まれてから妻に反逆されて悲惨な目にあうこともあります。

「自分の妻を自分と同じように愛しなさい。」(エペソ5・33)と教えるキリスト教の浸透は、男性には煩わしいものでした。パウロでさえも、「私は、女が教えたり、男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。」(Ⅰテモテ2・12)と腹を立てて権威主義になっています。独身のパウロには、「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」(Ⅰペテロ3・7)という労りと優しさは身に付かなかったのだと思います。

今年のテーマ「福音に生きる!」には、夫婦の関係が福音化することは必須なことです。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8・31.32)とありますが、真理とは悟りではなく、実践です。聖書の教えは、聖書を読んで悟ることではないので、個人で奥義を得ることはできないのです。愛せない人を愛することができれば、自由になります。自分の弱さも罪深さも欠点も知っていて、油断すれば、それを元に責めてくることもありうる妻を、「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」(前述)ことができれば、まさに福音の中に生きているのです。そして、旧約聖書の中で最も麗しく愛し合っているのが、イサクとリベカ夫婦です。その多くの要素、原因は妻のリベカにあると思われます。リベカの強さ、優しさを学んでいきましょう。

1.豆に働き、労を厭わない。そして、ラクダをも愛し、健康。

アブラハムのしもべが神に願ったことは、人だけでなくラクダにも水を汲みに泉に何度も降りていく犠牲的な女性であることでした。ラクダ一頭で一度に80?~130?も飲むので、「十頭」(10)では千?という途方もない量となります。「井戸まで走って行き、全てのラクダの為に水を汲んだ。」(20)。いつもそういう労苦を喜んで行いラクダをも慈しんでいたのです。

2.決断が早く、勇気がある。異教や俗悪さを嫌っていた。

しもべと従者の態度、「その人は、跪き、主を礼拝して」(26)という真摯な信仰、豪華な贈り物に現れる切実な願い、神の導き、などを確認して、リベカは即断しました。アブラハムの兄弟ナホルの孫であるリベカは、後に息子ヤコブをだますラバンの狡猾さと俗悪さや父ベトエルの月神信仰を嫌っていたのです。

3.愛され、慰めを与える母のような優しさがあった。

「イサクは母の亡き後、慰めを得た。」(24・67)。イサクが結婚したのは「四十歳」(25・20)で、「自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。」(25・21)とあるから、優しく妻の為に祈る夫でした。夫婦にとって互いの為に祈り合うということは、福音に生きるための絶対条件です。

4.夫の誤魔化しを赦す妻だった。神の守りと祝福が夫婦の上にあった。

アブラハムが20章でゲラル人の王にサラを「私の妹です。」と偽った時、神がアビメレクを脅したのは、息子イサクが同じことをする時に守られるためだったと思われます。サラを「返さなければ、あなたもあなたに臆する全てのものも、必ず死ぬことを承知していなさい。」(創世記20・7)。と神に脅されたことが、アビメレク王にも人々にも記憶に残っていたのです。

5.イサクは決して人と争わず、次々に祝福の井戸を見つけた。

井戸を奪われ続けても、前進し、争ったり、権利を求めたりせず、リベカのように祝福の道を「行きます。」とうとう、敵がイサクへの神の祝福を認め降参して、「あなたも私たちに害を加えないという盟約です。あなたは今、主に祝されています。」(26・29)と言わせるのです。

「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)。この奥義は、主にあって前進している者だけが掴むのです。

創世記24章48~58節

  • そうして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。
  • 24:49 それで今、あなたがたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」
  • 24:50 するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。
  • 24:51 ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」
  • 24:52 アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。
  • 24:53 そうして、このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。
  • 24:54 それから、このしもべと、その従者たちとは飲み食いして、そこに泊まった。朝になって、彼らが起きると、そのしもべは「私の主人のところへ帰してください」と言った。
  • 24:55 すると彼女の兄と母は、「娘をしばらく、十日間ほど、私たちといっしょにとどめておき、それから後、行かせたいのですが」と言った。
  • 24:56 しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください」と言った。
  • 24:57 彼らは答えた。「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」
  • 24:58 それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります」と答えた。