12月27日 「福音に生きる。」 ピリピ1章20~29節

 パウロの生き方は壮絶です。私は小学生の頃から本に浸っていたので、冒険物が大好きで、『アイバンホー』、『アーサー王物語』、『椿説弓張月』などの勇者に心が躍っていました。『モンテクリスト伯』はすごく長い本で、執念深く復讐を誓う人がいることに驚いたものです。司馬遼太郎、夏目漱石、川端康成、吉川英治、芥川龍之介、などの小説は殆ど読んでおり、人間形成に役立ったと思います。ともかく、人が生きる上で、どのようなものに影響されたか、自らがどのような人間かを的確にわきまえることは大事です。自らの生まれ、育った家族と地域、教育、仕事、身に着けた習慣を確認したうえで、それが福音とどのように結びついているか、或は、福音の浸透を妨げているかを祈りの中、御言葉によって、確認していく必要があります。

 私自身は、成功者になろうとして努力し続けた未信者の時代の意識と、自らの姿勢が、健全な信仰を妨げていたことに気が付き、「福音に生きる。」という真理に目覚めるまで多くの時間が掛かりました。信仰によって、その前の成功者になろうという願いを実現しようとしていたのです。この世で成功者になろうという思いは、この世に執着して人の目を意識し、自分の快適さを求め、神の国への願いを損なうものとなります。恥ずかしながら、自分の心をチャックし、神への真摯な誠実さを確認できるようになるのには、牧師でありながら20年以上掛かりました。今でも、そのような傾向、欲望は湧き上がってくるので、随時悔い改めております。今は、冷静に前述の小説や作者の思いや福音との比較をできるようになっております。

 パウロの人生は劇的です。この福音を間違ったものであると誤解し、迫害して、クリスチャンを捕縛するための指導者になっていたのです。「目から鱗」(使徒9・18)という慣用句は「何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになるたとえ。」と辞典にありますが、信仰に入るということは、物事の見方が全く変わるということです。

 私などは、救いを体験した時に、緊張感が無くなり、平安と喜びが訪れたことに気が付きましたが、それでも前述のように「目から鱗」が取り切れなかったのであります。一度だけの変化では聖くはならないのです。「あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3・8-10)

 一度仮死状態になり、天国を体験したパウロにとって「死ぬことも益です。」(21)、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(23)とまで言っています。信者に確認しなければならないことは、このような「救いと天国」の確信があるかどうかです。この確信があれば、新型コロナなど恐れるに足りません。残る家族に迷惑が掛かるという心配は、この世のものです。この世の栄枯盛衰は虚しく過ぎ去るだけですから。

 「しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」(24)。つまり、福音を伝えるという使命を果たす為には、簡単に死ぬわけにはいかないということです。私も妻も歳を取ってきました。日本社会では退職の年齢です。妻は、「私の働きはこれからだ。」と言っています。私自身も、やっと長年の努力と研究の成果としての力がついて来たという実感があります。身体は衰え、Ⅰ度高血圧と診断され、油断すると病気になりやすくなってきました。しかし、「この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」という使命を持っています。夫婦共に、今年も多くの神の業に貢献してきたという達成感を感じます。若い時にはできなかった多くのことができるようになりました。「やりたくない。疲れた。のんびりと過ごしたい。」などとは、私の為に十字架に掛かり、重荷を負われた主の前で、とても言うことはできません。

 「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」(27)とは、どういうことでしょうか。のんびりと福音的に過ごすことではありません。「あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。」(27.28)。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」(29)。

 「福音に生きる。」ということが生易しいことではないことは覚悟しています。それでも全国の当教団の教職を思い見ると、ほとんどの方が、困難の中で牧会を続けています。教会が小さいのに、子供に障害があったり病気になったりしています。心配して電話したり、メールしたり、手紙を書いたりすると、元気に返事がきます。この世では珍しい献身した人々です。彼らの為にも、弱ってはいられません。のんびりもしてられません。天国に行って休んでいては申し訳ないと思います。教会員同士もまた、励まし合い、助け合って福音に生きてください。

ピリピ1章20~29節

  • 1:20 それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
  • 1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
  • 1:22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
  • 1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
  • 1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。
  • 1:25 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。
  • 1:26 そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。
  • 1:27 ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、
  • 1:28 また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。
  • 1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。