「神の奥義であるキリスト」 コロサイ2章2~12節

 祈祷会では、経験や現実を解明することができない知識の蓄積を求める危険性と愚かさを語りました。自己中心は神に対立する思考で、自分の内に知識を蓄え、判断や意思決定ができるものを蓄積しようとする傾向です。信仰は、自らの利害を基にした判断よりも、全能全知で義なる神に依存し、信頼して、愛を実践していこうとするものです。

 信仰に試練は付き物ですが、試練によって、その人が自分の利害によって生きているか、神を信じているかが判明してきます。そして、「まことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導く」(4)のが、不信者であり、信仰によって生きることを愚かと非難するのです。新型コロナの感染者も増えていますが、実際には毎年のインフルエンザの感染者は一千万人、死亡者は一万人ですが、新型コロナ感染者16万人、死亡者二三〇〇人よりも遥かに多いのですが、実際には後者への恐れが人々の心や生活を怯えさせています。

 今日の執事会では、その対策を打ち合わせます。インフルエンザに掛かると重症になって出歩かないのに、コロナでは歩き回って感染させるから怖がられるのです。感染が怖いとして、全く外に出ない高齢者が体調を崩してしまうことも多くなっています。子供同士の外での遊びを禁じる親も多く、心身の健全な成長が懸念されます。

 教会とは組織というよりも、信者によって構成される神の家族・キリストの身体であり、「心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し」(2)ていくことができるものです。試練・困難に際して、打算や常識では逃げたり止めたりすることを、信者同士で或は聖霊によって「励ましを受け」、信者同士の「愛によって」結び合わされ、信仰によって解決しうるという「理解をもって」、神は生きて働いて助けてくださるという「全き確信に達し」、そして「神の奥義であるキリスト」、つまり教会という存在の奥義を知るようになるのです。

 私は、断食や徹夜祈祷、早朝祈祷を教会員に強調しません。むしろ、「秩序」(5)ある信仰生活を諭します。それらは健康を害し、日常生活を壊します。韓国で早朝祈祷を競争し合い、夜中の二時三時から祈り始めるようになりましたが、結局、その人たちは家に帰ったら寝ていました。仕事をまともにできるはずがなく、家族の生活を混乱させます。「信仰」という言葉で、異常を正当化するような教えは、基本的に否定します。(23節参照)。『風に立つライオン』という映画で、アフリカで医療に殉教する青年が毎日、自分に向かって「がんばれ」と言っていました。彼は、決して他人には頑張れとは言わない、言ってはいけない、と語っていました。

 「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし」(7)という言葉は、聖書を読み、聖書と聖霊に聞き、祈りによって自分を戒め、利害や状況に左右されない「信仰を固くし」た日常生活を守ることだと考えております。自分の言いたいことを言うよりも、人の気持ちを聞き、神の導きを待って行動する。苦しんでいる人はいないか、悲しんでいる人はいないか、助けを求めている人はいないか、神よ、為すべきことを教えてください、と祈りながら生活する。それが「あふれるばかりの感謝」(7)の生活だと思います。

7年目になった長柄のガーデニングは、私の心を満たし、「むなしい、だましごとの哲学に」(8)左右されることから守ってくれました。日常のしなければならないと思われることから離れることによって、「だれのとりこにもならぬよう」(8)、注意することができました。私たちの心は、日常の思い煩い「人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるもの(別訳「この世のもろもろの霊によるもの」)」(8)に囚われているのです。占いにも、ニュースにも、儲け話にも心を揺るがせてはいけません。

 「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(9)。キリストが、普通に祈れば叶えられ、知識は与えられ、奇跡は起こり、祝福は及びました。私たちも、キリストのように生きるならば、祝福が注いで来るのです。

 ユダヤ人は、割礼を受ければ神の民になると信じていました。しかし、「人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」(11)とは、信仰により、その心と身体に全生涯に及ぶ変化を起こすことです。その割礼は、神に献身した人の心に刻まれたしるしです。そして、イエスキリストだけが、神に従順することを妨げている罪の影響を切り離し、神の子とする霊の割礼を施すことのできる「キリストの割礼」(11)を授けることができるのです。

 「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ」(12)とあるように、クリスチャンは洗礼と共に、この世に対する望みを持った人を死なせ、「神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされ」(12)ることを告白し、生きるのです。復活の力が、信じる信仰者にも及ぶからこそ、「神の奥義」なのです。

コロサイ2章2~12節

  • 2:2 それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。
  • 2:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
  • 2:4 私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。
  • 2:5 私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。
  • 2:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。
  • 2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
  • 2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。
  • 2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
  • 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
  • 2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
  • 2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。