「十字架の為に生まれたキリスト。」 コロサイ1章13~22節 

 神の子は、「万物よりも先に存在し」(17)「万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。」(16)。

 最近、「進化」という言葉が用いられるようになってきました。進歩ではなく、存在が変わって発展したという意味合いでしょうか。進化論について、ダーウィンが『種の起源』(1859年)を出版して、生物は常に環境に適合するように変化し、進化してきたと述べました。創造論者は、「種は変化しない、遺伝子は損傷することはあっても、改善することはない。実際に異種同士の生殖はできず、中間種は存在しない。」と主張してきました。

 自然界では、確かに種は変化しなかったのですが、遺伝子工学の発展により、新たな形質を有する生物が開発されつつあります。「バイオハザード」という恐怖映画がありましたが、その言葉の意味は、「生物災害」であり、小規模では既に報告されています。今回の新型コロナウイルスも遺伝子操作によるものではないかと噂されています。つまり、自然界では否定できなかった神の創造の神秘を人間が破壊しているのです。

 聖書は、神の子イエスが、人として生まれる遥か昔に、配慮をもって宇宙を創造されたと記しています。そこでは、嵐や火山噴火などがあろうとも、地球環境の浄化作用ともされて、汚染を進める人間の傲慢に警告をしていたようにも思われます。世界人口は1800年には10億人であったものが、1927年に20億人になり、1987年に50億人、2019年に77億人になりました。地球温暖化は過去に例がないほどの速さで戻りようがないものとなってきました。

 キリストは、ご自分が罪の犠牲となって十字架に掛かられたことにより、人間間の争いや戦いも、「敵意を廃棄された方です。」(エペソ2・15)。ところが、人間は、互いに争いながらも、一体となって神への反逆を始めたのです。つまり、科学の力によって、神の創造の業に侵略を始めたのです。

 バベルの塔は、「自分たちの為に、頂が天に届く塔を建てて、名を挙げよう。」(創世記11・4)というものでした。神は、「このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。」(創11・6)として、「互いの言葉が通じないようにしよう。」(7)とされたのでした。英語が世界言語になり、情報や知識がインターネットによって共有化され、「不可能なことは何もない。」という状態になったのです。確かに、先進国における生活は便利になり、人間は拘束なく勝手気ままに生きることができるようになりました。人間は神のようになろうとしているのです。

 ところが、「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2・6-8)。それによってこそ、「私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」(1・14)

 現実社会で、人々は経済の繁栄の中で不自由なく暮らすことが出来てきています。他方、多くの人々が貧困と困難の中で不自由の中に生きていることも事実です。だれが、神を求め、この世を暗黒だと思うのでしょうか。「私たちを暗やみの圧制から救い出して」(1・13)と願うでしょうか。

 イエス様は、山上の垂訓として「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(マタイ5・3.4)と言われました。私には、長い間、この言葉がわかりませんでした。しかし、社会が繁栄し、享楽を貪る愚かさを嘆く中で、この言葉をしみじみと感じるようになりました。私自身は、金持ちになり、不自由なく暮らせるようになりました。しかし、なぜ人々は魂の救いを求めず、自らの愚かさに気が付かないのかと苦しみ始めたのです。虚しさが心を覆い、いっそのこと、災害や社会不安が起これば、神を求めるのかと思ったこともありました。しかし、災害にあっても、不幸になっても、人は、「神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのです」(21)。

 しかし、イエス様は、そのような要求をせずに、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」。そして、私たちに語り掛けられます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16・24)

 国も、社会も、人も、自己中心の、繁栄を求めるものになっています。そういうなかで、私は、「自分を捨て、自分の十字架を負い」という言葉に促されて牧師になりました。今年で、献身40年となります。自分の未熟さ、罪深さを思い知る歳になりましたが、同じ献身者の妻が毎日の生活を共にしてくれていることに感謝をしています。成果を期待するのは、「自分を無にして仕える者」になっていない証拠です。いつまで続くのか、と疲れる時もありますが、この道は神に従う神の国への道として、歩んでいこうと考えています。主は、「わたしについて来なさい。」と言われるからです。私と共に歩む献身者を求めます。

コロサイ1章13~22節

  • 1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
  • 1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
  • 1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
  • 1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
  • 1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
  • 1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
  • 1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
  • 1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
  • 1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、
  • 1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。