「自分を低くする者が受け容れられる。」マタイ18章1~6、10節

 キリスト教は性悪説を唱えますが、それではこのようなイエス様の子供に対する態度はどういうことか、と疑問を呈する人もおります。

 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(18・3.4)とあるように、子供達が「悔い改めている。」或は、悔い改めやすい「自分を低くした者」であることがわかります。強情であったり、頑なで謝らない子供では、天国には入らないということです。つまり躾の問題であり、そういう面で、子育ての重要さを箴言では繰り返されています。

 1:8 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。
4:1 子どもらよ。父の訓戒に聞き従い、悟りを得るように心がけよ。

 イスラエルでは、バル・ミツバ(男13歳)、バット・ミツバ(女12歳)で成人式を挙げます。ミツバとは律法のことであり、戒律を守ることができる年齢になったということです。つまり、神の前に戒律を守ることができ、自分の行為で許されることと許さないことを認識して自分の行動に責任が持てる年齢に達したという意味を持ちます。これは、結婚可能とか選挙権ということではありません。このバル・ミツバを済ませたら、男子はシナゴーグで聖書を朗読できます。自分の生まれた週に読まれた聖書の箇所を、ラビに個人的に正式な読み方を教わり、暗唱するのです。

 父の訓戒とは、そのような聖書の言葉を身に着けることであり、「知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。」(箴言13・1)という後者の子供も実際にはいることでしょう。その場合、「望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。」(19・18)となり、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」(13・24)と教えられます。

 現代日本では、子供に対して鞭を振るったら、犯罪として捕まってしまうこともあり得ます。子供が、家で一番横暴であり、生意気な場合も見られるようになってきました。残念ながら、母親が夫に対して不従順な場合にそうである場合が多くあるようです。つまり、夫婦関係の崩壊が子育ての失敗になり、家庭の崩壊につながっていくのです。

 その夫婦関係の崩壊は、何によるのでしょうか。それは、親自身が「あなたの父と母を敬え。」(申命記5・16)という戒めを守っていないからです。従順ということを自ら果たしていないならば、子に対しても要求できないのです。「親を敬え。」という戒めは、立派でなくても親を敬うということを意味します。現代社会は、相手にその価値や在り方を要求します。損得勘定、相当の報いを要求するのです。これは、従順というものではありません。合理性や正当性など、そして、クリスチャンがよく口にする性格の良さなどは、自らが果たす従順とは相容れないものになる場合あるのです。神に従うということは、不合理なことが多いものです。不合理なことはしなくても良い、などと考えたら、親に従うなどは愚かなものになります。信仰も合理的に納得のいくものだけを保持するものとなります。

 私は、親に対して不平や文句を言ったことはありません。理不尽と思われても我慢しました。結果的に、信仰生活で困難や苦難が続いても、神に対して不満を持たずに忍耐することができたと思います。親の態度や性格、そして行いに不満を持つことは、子供たちの反抗と共通します。それは、聖書的にはいけないことなのです。自らの親や神に対して従順を通した者こそが、子供に対して従順を要求し、断固とした躾ができるのです。

 「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者」(18・6)とは、自分勝手に怒り、行動している大人たちのことです。自らが親や社会に不従順なのに、子供に対して従順を強いる親や大人に対して、子供たちは、その矛盾に気が付き不満を持つのです。「この小さい者たちを、ひとりでも見下げたり」(18・10)とは、子供に対して理不尽な要求をしても子供たちは気が付かず、わからないと考えている大人のことです。罪びとは、自分の罪に気が付かないのです。神も天使も、そのような私たちの不誠実を見ておられます。

 子供たちに従順さを教えることができるのは、自ら神と親に従順を尽くしている人だけです。これは、怖いことです。信仰というものは、神の国への道しるべを辿って歩んでいくことですが、その道しるべには、まるで人生ゲームのように課題が記されているのです。そして、その課題が果たされていなければ、戻ってそれを果たしていくしかないのです。

 娘の結婚に際して、40年前の妻の両親の心配と動揺を思い遣ることができました。うつ症状がひどく、料理も家事もできず、体力もない、常識も知らない娘を、どこの誰ともわからない男と結婚させることは、信仰もない親には耐えられなかったでしょう。その過激な行動に対して、攻撃的な行動も反発もしなくて良かったと心から思います。今は、その娘も力強く優しい親になりました。その背後に、イエス様の優しい見守りがあったのです。

マタイ18章1~6、10節

  • 18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
  • 18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
  • 18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
  • 18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
  • 18:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
  • 18:6 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
  • 18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。