「キリストのことばを住まわせる。」 コロサイ3章8節~

 今日は讃美礼拝がありますが、讃美とは辞書で調べれば「褒めたたえる」とあります。歌とは、「声によって音楽的な音を生み出す行為」とありますから、讃美歌を唄えば讃美となるのではなく、神を賛美する心が無ければ讃美ではなく、「讃美歌を歌った」、というだけです。ですから、讃美の時に「手を上げたくない」という人がいますが、それは単に「讃美の歌を歌った。」というだけで、神を讃美しているのではないと言えるでしょう。つまり、自分のメンツや趣味にこだわっているとか、自分の主義主張に固執していては、神を褒めたたえることにはならないのです。自分を委ねなければ、讃美はできないのです。

 「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。」(9.10)とありますが、自分の過去・性質・能力に固執していては新しい人になることはできません。ですから、私はしばしば救われる前の自分や過去の出来事を自慢してはいけない、とお伝えしているのです。「自分の過去を捨てたら自分がなくなる」と危ぶむ人もいますが、それは「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至る」(10)という素晴らしさを信じないからです。

 親に愛されても親を否定したり、攻撃したりする者もおりますが、それでは親を感謝することはないでしょう。神を讃美しない者はそのような不遜な者であり、神は、そのような者を罰することによって正義を現わします。讃美できるのは、まさに「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」(12)となったことによるのです。また、だからこそ、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」(12)という指導に従うのです。身に着けるということは、その努力や行いをするということです。自然につくものではありません。私自身は、自分の中に苛立ちや批判的・攻撃的な思いが浮かび上がると、必死になってそれを打ち捨て、祈りの中で「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」をようと努力をするのです。そして、そのために聖書を読み、神からの教えを受けようとするのです。

 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2・6.7)。ですから、私たちは必死になって古い自分を「行いといっしょに脱ぎ捨て」ることが必要であり、聖めによってこそ、自らが「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」であることを証明及び自覚できるのです。13,14,15節も同様に実行できるように努力をするのです。私は、多くの自称クリスチャンが、聖めも慈愛も謙遜もなく、成功や豊かさを求めて生きているのを見てきました。残念ながら、神を甘く見ているとしか考えられません。

 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配する」(15)ためには、心を欲望やこの世の思い煩いに囚われてはいけません。「いつも喜び、絶えず祈り」(Ⅰテサロニケ5・16.17)、どんなに嫌なこと、思い通りでないことがあっても、「全てのことに感謝」(5・18)なければできないことです。しかし、それができるからこそ、神の国の喜び、クリスチャンとしての生き甲斐があるのです。

「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」(16)るためには、いつも聖書のことばを読み、唱える必要があります。人と話さない人は会話能力が高くなりません。人格も独りよがりになります。聖書に聞き、聖霊に聞き、語り掛けるのです。時間を費やさなければなりません。クリスチャン同士の会話も、「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」て、御言葉の奥義を解き明かせるように努力しなければなりません。

 「詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」(16)とはなんと素晴らしい言葉でしょうか。エペソ5・19にもありますが、その後にはどちらも、夫婦が愛し合うことが記されています。詩とは、詩篇であり、自らの信仰の恵みを歌うものです。讃美は神を褒めたたえることです。霊の歌とは、聖霊に導かれて奥義やみことばを歌うものです。

信仰は考えて身に付くものではありません。聖書をともかく繰り返して読むうちに、聖書的な考え方と信仰が身についてきます。讃美を繰り返す中で自らの霊が解放され、思い煩いや怒りがなくなり、神や人を愛せるようになります。祈りの中で聖霊に教えられ導かれて、霊の深みと聖い人格が形成されます。

 「ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし」(17)とは、神のしもべとしては当然なことです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2・20)という奥義に達するならば神の国の中に生きていると言えるでしょう。クリスチャンは、神の国の中に生きるように、みことばの中に自由に留まることを理想とするのではないでしょうか。

コロサイ3章8節~

  • 3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
  • 3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
  • 3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
  • 3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
  • 3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
  • 3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
  • 3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
  • 3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
  • 3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
  • 3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。