「キリストは王の王。」 黙示録19章6~16節

 独裁的な権力を握っていた安倍首相が体調を崩して突然の退陣となりました。トランプ大統領もアメリカ国粋主義が極端になって反発が大きくなり、立場を追われかねません。中国の習近平国家主席も、10年以上の多選への道を制度付けて独裁体制を強化したけれども、強引な中華主義が国際的な批判を浴びて中国経済を危うくしているので、失権する可能性が出てきました。

 国家が国民のためにあるという建前が全うされたことは、歴史的には悲惨な状況からの回復という状況以外には殆どありません。国家は権力者が権力を握るためにあります。近代国家は法の支配によって公正かつ適切に国家権力を行使するということになっていますが、マックス・ウェーバーの指摘したとおり、官僚たちが自分たちに都合の良い立法をして、合法的に権力構造を保っています。それでもなお、違法行為をして利権に走るのですから人間の強欲は留まるところがありません。

 今回のコロナ騒ぎで指導者の在り方の難しさ、安易な行動に走りがちな危険性を覚えました。一律の助成金は、犠牲を払って活動しているように見えますが、実際には殆ど人々には助けになりません。却って財政破綻を起こします。継続的な活動を支援できるようなものでなければならないのです。また、組織自体の刷新をして、支援体制の強化もしなければなりませんが、ネット申告や手続きによって日本の組織の未熟さをさらけ出しただけとなっています。

「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」(ルカ22・25.26)。年の若い者、仕える者、給仕する者は、人々の役に立つように、いつも注意を払い、心を配り、動き回っています。自分が正しいと思ったことを人の指示を受けずにしたい人が多いのですが、人がして欲しいと思ったことを、その人の気持ちを配慮して行動する人は少ないのです。指導者は、自分のしたいことをするのではなく、その構成員が望むことを、使える姿勢で行動せよ、と言われるのです。

 私自身は、悔い改めて告白しますが、説教を通して、牧会を通して、教会員を変え、立派なクリスチャンに成長させようと苦労してきました。しかし、そうなって都合が良いのは私自身であり、人を思い通りにしようとする世の人々と根本的には変わらないことに気が付きました。ところが、イエス様は、赦しだけを宣言して仕える人であったのです。

 養っている家族に対して、給料を払っている従業員に対して、命令する権利があるように考えていたのです。良いことの為、成長させる為、給料を払う為、権威を行使するのは当然だと考えておりました。しかし、イエス様は、「あなたがたは、それではいけません。」と私に語り掛けられました。私は、これらの人々を幸せにし、仕事を楽しませ、そして福音の喜びを体験してもらうために、この世の職を与えられているのに過ぎないのです。確かに、この悟りの後、仕事や人を思い通りにしようという気持ちがなくなってきたので、楽になり、能率が上がりました。教会員にも仕事を頼みますが、もしやらなかったら、いつでも私自身が行うという意識をもって見守っています。仕事などはそれで十分なのです。神は、私に十分な知恵と知識と力と体力を与えてくださいます。自分の思い通りにするという意識さえなくなれば人生は簡単です。

「あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。」22・28.29)。神の国でも、この世でも、支配者は必要ですが、試練の時、つまり、自分の思い通りにならない時に、仕える気持ちを持った人ならば、神の国でも指導者になれるのです。

 さて、「王の王、主の主」と神の子、イエス様が賞賛されるのが、この最後の審判の時です。その時、主は、「『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり」(11.12)という公正な裁きをされる王として立たれるのです。神は、「信頼できる真実な方」であり、悪がはびこるので、必ず義をもって裁きをしなければなりません。その時まで、慈愛に満ちたイエス様が、「なぜ、このような忍耐を持った愛にも拘わらず、悔い改めずに罪を起こし続けたのか。」と裁きをするのです。

 そして、この時、クリスチャンは、「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。」(黙示録19・1.2)と讃美を献げるのです。「水戸黄門」や「遠山の金さん」その他の時代劇で見る勧善懲悪の末路は、聖書の裁きにおいて実現するのですが、大事なことは、私たちは、それを見る者というよりも、裁かれる側であるという怖さが聖書の警告なのです。

黙示録19章6~16節

  • 19:6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
  • 19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
  • 19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
  • 19:9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。
  • 19:10 そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」
  • 19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
  • 19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
  • 19:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
  • 19:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
  • 19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
  • 19:16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。