誰もが向かう地獄。限られた者の天国」黙示録20章12~15節  説教 櫻井圀郎師

Ⅰ 神の書物 20:12-13

地の終わりの図です。地の初めからの全人類が、神の裁きの座に引き出され、立たされています。死者には、ミクロスとメガロスがいます。小さな者と大きな者です。権力や、能力や、職責や、財産や、働きの大小、地位の上下などでしょうか。

大小が問題になるのは、多く与えられた者、大きく用いられた者、上の地位に挙げられた者には大きな責任が伴い、少ししか与えられなかった者はそれなりの責任で果たせるからです。ただし、小さなことが自己責任なら話は別です。地を治める「神の代官」として創造されたことを忘れてはなりません。権限を忠実に履行してきたでしょうか。

希語では、小さい、大きいという意味ですが、現代日本語では、ミクロは微細、メガは巨大の意味です。単に、小さい、大きいの次元ではなく、微々たる細部から、巨々大々なる処まで、完全に掌握され、完全な裁きの対象とされていることに注意。

当然、悪行を重ねてきた人間は、言い逃れを企てるでしょう。神の御座に出されてもなお嘘をつき、責任転嫁することでしょう。しかし、嘘が通用しません。各人の行状が完全に記録された書物が証拠として出されているからです。

Ⅱ 業火の池 20:14-15

神の裁きは、書物の記録により、各自の行いに応じて行われます。虚偽、不正、嘘、ずる、賄賂、隠匿、隠蔽、偽物、賭博、犯罪、企み、脅迫、強制などで人生を渡っている人もいれば、コツコツ忠実に、不正を行わず、誠実に務め、悪を退け、正義を行って、不当な処分を受け、家族や財産を失い、生命を失い、苦労に苦労を重ねた人もいます。完全に、各自の行いに応じて、神の正当にして絶対の裁きが実行されるのです。

その裁きに、「火の池」が想定されています。19章20?21節では、悪魔と偽預言者が先に投じられているところです。いわゆる「地獄」です。「第二の死」と呼ばれています。

地上における死を第一の死と捉え、死後の地獄を第二の死と呼ぶのではありません。人間は罪の結果、生きながらに死んでいたのです。現世が第一の死です。そして、第二の死に投じられるのです。第一の死と第二の死とは連続線上にあり、別々の2つの死があるのではありません。

基督による罪の贖いによってのみ、第一の死から生命への転向できます。これで生命に移行し、死は断絶され、第二の死に至ることもないのです。

 Ⅲ 天国入禁 20:15

 15節は、「誰でも生命の書物の記録にない者は火の池に投棄された」と言います。それなら、生命の書物のみで裁きを行えば十分なように思われます。

しかし、神の裁きは、先ずもって、各自の行状により、書物の記録によって行われるのです。第一に、各自の行状を記録した書物により、第二に、生命の書物の記録によるのです。「各自の行状に応じて」が、神の正義として存在するのです。

 「各自の行状に応じて」である以上、一律に、「天国か地獄か」ということではないでしょう。天国にも「各自の行状に応じて」それぞれの場があり、地獄にも「各自の行状に応じて」それぞれの場があるはずです。

 単純な二者択一ではなく、一人一人の一つ一つの行いから判別される千差万別の道なのです。それでこそ、生涯の労苦は報われ、障害は回復され、悪徳悪行は処断されるのです。神の正義とは、人間の個別性を無にした単一なものではなく、一人一人の人間に完全に対応したものなのです。

誰もが地獄への道を歩んでいます。地獄への道は広く、世的には、楽しく、面白く、愉快な道です。一方、天国への道は、険しく、狭い門で仕切られています。蔑まれ、侮辱され、傷つけられ、非難され、投獄され、処罰されなど、大変です。あくまでも、限られた者の天国なのです。

 いよいよ終末の近さを覚える今日、真摯に、自分の行状に自己監視の目を向けたいものです。

黙示録20章12~15節