「主は門であり、良き牧者です。」 ヨハネ10章1~14節

「大道無門」という書の書かれた将棋の藤沢秀行の扇子を持っています。その意味は、「大きな道路に門がないのと同じように、悟りの世界に到るには、決まった入り方はない。」ということです。禅や仏教の悟りの考え方でしょうが、実際にはどの教えにも門閥や宗派があります。キリスト教に何故多くの教派があるのかと問う人々が日本には多いのですが、キリスト教は悟りの教えではありません。

イエス様ご自身が、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7・13.14)と教えておられます。

出口治明の『哲学と宗教全史』を読みました。大変聡明な方で、生命保険会社を設立し、大学の学長になり、歴史や哲学・宗教に造詣の深い方ですが、単に宗教を分析し、分かったふりをして論述しているだけで、すぐに浅薄な書であることがわかります。「宗教全史」とは、一介の人の書名とは、不届きなものです。残念ながら、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」(マタイ23・13)と、救いの門に入らせないように知識をこねくり回して教えている知識人ということになるでしょう。

先週、信者は羊で、神を信じない人々は山羊であると聖書が区別していることを説明しました。神を信じて生きるということは、知恵も知識も、能力も力も、富も地位も要らず、忠実に神を信じ従っていくということなのです。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Ⅰコリント1・21)。

先週、仕事上で醜い権力争い、騙し合い、裏切りを見せられました。私の前では善人ぶりを見せていた人々が、金や権力の為に争う姿を見て、牧師で良かったとつくづく思いました。私も世の中では成功者に見られるので、多くの儲け話や旨い話を持ってきます。しかし、私は酒の出る席や歓楽街には行かず、自分には益でも他の人の害や損になることはしません。儲け話に乗って挫折した人も見てきました。失敗しても懲りずに悪徳に走る人々の末路を心配するばかりですが、間違いなく地獄だと思っています。主は、貧しい人々、弱き人々を配慮されます。馬鹿だから負けていると考えられていますが、主はその人々の味方です。

 教会という羊の囲いに過ごして、つまらなくはないのか、と人々は馬鹿にします。そうです。「宣教のことばの愚かさ」、信仰生活という純粋で愚かな生き方に、私たちは満足しているのです。実は、教会成長や教会を通して成功者になろうと訴えていた牧師たちが挫折してきています。私は、教会員を通して自分を成功させようとしたり、儲けようとしたりしたことはありません。必ず牧師給以上のものを献げてきました。神はご存知です。

 私は、「主がお入り用なのです。」(マタイ21・3)と夢で語りかけられて牧師になりました。私の仕事は、「わたしの子羊を飼いなさい。」(ヨハネ21・15)であると覚悟しています。日夜、教会員のことを心配しています。その食料である神の言葉を準備しています。過ごし易い緑の牧場と憩いの水辺に導こうと苦心しています。なぜなら、それが神から与えられた仕事であり、使命だからです。妻もその同労者です。その為に、神から与えられたのです。

 クリニックも、会社も、私の研究や全ての活動も、福音の為です。多くの人々を助け励まし、自分を注いで来ました。それでも、私たちの意図は理解されないでしょう。単に、良い人くらいにしか思われないでしょう。

 生きていくだけでない、人々の罪や悪を思い知ります。自分の思い通りになるために、人々を排除し押しのけ犠牲にして、自分は生き残ろうとするのです。自分の人生を自分の思い通りに生きようとしているのです。彼らの最後は間違いなく地獄であると思い知ります。私は、そういう世界の中で生きているのです。

 そろそろ、後継者が必要になってきています。牧師になる方が、この教会の中から起こることを願っています。自分の成功や願いの達成は、諦めてください。苦労や報われないことは常にあります。病気や体調が悪いといって、礼拝や奉仕を休むことは許されません。神と人との前に、命がけで生きなければなりません。受けることを求めず、与えることを心掛けなければなりません。人々が、私たちの労苦に報いるとか、感謝するなどと期待してはいけません。主の御霊が導くならば、嫌なことも、得意でないことも拒まないで、従わなければなりません。

 報いは神の国であります。それ以外のものを地上で求めるなどは、主の僕に相応しくありません。「自分を捨て、自分の十字架を負って、従わなければ」主の弟子にも、主の御心に適う牧師にもなれません。

 献身者も求めます。職業的な牧師にならなくても、同じように主に従う人を神は求めています。羊飼いになりましょう。主の模範に習って、良き羊飼いになりましょう。

ヨハネ10章1~14節

  • 10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
  • 10:2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
  • 10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
  • 10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
  • 10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
  • 10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
  • 10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
  • 10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
  • 10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
  • 10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
  • 10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
  • 10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。