努力して狭い門から入りなさい。」ルカ13章22~30節

祈祷会の祈りでもお分かりになるとおりに、私は教会員の為にお祈りをしています。教会員番号は144まであり、現在の正会員は51名です。亡くなった方16名の内、召天であったと確信する人は7名、転籍不明者46名の内、間違いのない信仰者はわずか2名、別帳会員は殆ど信仰は確認できません。今でも執り成しの祈りはしておりますが、「主よ。救われる者は少ないのですか」(23)、と私自身苦しみを感じます。

牧会や教えが未熟だったと反省をしながらも、残念ながら彼らに共通することは、神への信仰心、悔い改めが殆どない、ということです。まるで、「教会に来てあげている。」かのような言動が特徴でした。「献金を払って教会を助けている。」という意識もあったような気がします。「あなたがたも悔い改めないなら、みなおなじように滅びます。」(13・5)とあるとおりに、確かに彼らは傲慢でした。

信仰45年になりますが、なんでもないことでつまずく人々がおります。イエス様が、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。」(ヨハネ6・56)と言われた時に、「弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』」(ヨハネ6・60)とつまずいた時、「イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。」とあります。

納得がいく時に信仰生活をして、自分にとって都合が悪い時、納得がいかなくなった時、飽きた時、問題が起きた時に、信仰を捨てるのは、本人の判断によるものではないことに気が付いてきました。「努力して狭い門から入りなさい。入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」(24)。信仰とは、趣味や好みではありません。信仰を守るために努力をしない人は、サタンの惑わしを受け、信仰の門から入ることができないのです。神も、真実の信仰者ではない人々を受け入れないのです。

さらに、努力をして他の信仰者を見習い、それらしく振る舞っても、信仰者の仲間になれない人々がいることに気が付いてきました。「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Ⅰコリント1・21)。クリスチャン同士の会話に加わることができず、この世の会話、世間話しかできない人は、自らが救われていないこと、神の国の民ではないことに気がついて欲しいのです。

 「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。」(マタイ13・14)。教会員同士の会話は聖いものでなければなりません。そして、もし教会での会話が世の中と同じものであるならば、それは魂の救われていない者の集まりなのです。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』(26)。教会に来ているからといって、それで神の国の仲間になったと思い込んではいけないのです。

私には、救われていない者の会話はわかります。塩気がないからです。教会に長くいても、教会員と親しくても、塩気が無い人には注意して、同化しないように気を付けてください。「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」(コロサイ4・6)

 「主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』」(27)。残念ながら、苦しいことに、教会に来なくなった人々は、教会に来れなくなったのです。私は、教会に来なくなった人々が、尤もらしい教会や牧師に対する批判を聞いてきました。自分にとって都合の良い教会を求めて渡り歩いている人々も多くおります。

 教会から、嫌な人、救われていないような人を追い出そうとしてはいけません。神の御霊が、聖くない人を追い出すのです。それは、「狭き門」を通ることができるのは、努力して聖めの道を求める人だけだからです。うまくごまかして、教会の中ではクリスチャンらしく装う人々がおります。終末だけでなく、いつの時代にも偽の信者は教会に入り込んで教会をかき回し、混乱させ、互いを争わさせようとするのです。

 ですから、聖徒たちは、「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」(エペソ6・11)と命じられるのです。今回はコロナ災害によって、多くの教会が壊滅的な攻撃を受けてしまいました。努力して、聖めと謙遜の道を歩まない人々は、欲に惑わされ、道を踏み外してしまいます。どうも、他の人に手を差し出す余裕さえなくなる時代がくるようです。祝福を祈ります。

ルカ13章22~30節

  • 13:22 イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。
  • 13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
  • 13:24 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
  • 13:25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
  • 13:26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
  • 13:27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』
  • 13:28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
  • 13:29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
  • 13:30 いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」