「皆が聖霊に満たされ。」使徒2章1~13節

イエス様が昇天され、残された弟子たちは自分たちへの迫害が予想される状況で、普段の生活をすることもできず、エルサレムで一部屋に集まって「心を合わせ、祈りに専念していた。」(使徒1・14)。「120名ほどの兄弟たちが集まっていた」(15)というから大人数です。

祈祷会でも話しましたが、人間は艱難や戦い、人の非難は嫌がるもので、できるだけ無難な道を通ろうとします。無難な道を通ることと、正しい道を通ることは、多くの場合違っています。「恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5・36)ということが、人生では非常に大事なものなのです。今日のテーマ「聖霊に満たされ」の逆が、恐れることなのです。ですから、「祈りに専念する」ということは、恐れへの対抗手段なのです。

また、「心を合わせ」という心の交流が大事です。黙っていたり、我慢したり、孤立すると、サタンや人の攻撃に負けてしまいます。ですから、「集まっていた」、「皆が一つ所に集まっていた。」(2・1)ということが大事なのです。祈りは神との語り合いであり、神への訴えです。人と語り合い、聞く耳の持っていない人が、祈りの中で神に聞き、神への願いを十分に深いものにできるとは思えません。

助けを求めない、助け合わない、自分一人で解決しようとする、という孤立的なことが人生の戦いでは勝負の分かれ目となります。教会というのは、建物のようなものであり、「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4・16)。「人の世話になりたくない。」、「人に迷惑を掛けたくない。」という考えは、多くの日本人のタイプですが、教会の考え方とは相いれません。

コロナ災害で、多くの教会が「集まる」ことを止めていました。宗教は緊急事態宣言の対象ではないのに、勝手に自主規制をして礼拝を止め、ラインやユーチューブのない教会は礼拝自体がないので崩壊をしています。医療機関が活動しているのは、命と健康に関わるからで当然なことと受け留められているのに、教会が魂と人生に関わる重大なものであるということを自己放棄していては、これからの活動に支障が来るのも当然でしょう。

試練や災害の時は、このように組織や個人の実態が現れるのです。1タラント与えられたしもべは、率直に悔い改めないで、「ご主人様、あなたは、…ひどい方だとわかっていました。」(マタイ25・24)、と批判するのです。悔い改めないで言い逆らうようなことでは、「外の暗闇に追い出しなさい。泣いて歯ぎしりするのです。」(25・30)となります。

 「恐れないで信じ」、「心を合わせ」、「共に集まり」、「祈りに専念する」ことが、試練の時には何よりも必要です。娘を成田に迎えに行く時に、もし娘が感染していたら、今日の礼拝は私がラインで皆さんに会堂の画像で説教を送る可能性を覚悟していました。更に、私や妻が感染したら、クリニックも休診にするしかないことを覚悟しました。「恐れない」ということは、全ての犠牲を覚悟することです。覚悟したら、恐れも心配も不満もありません。

 信仰というものは、感染しないように祈る、という神頼みではありません。たとえ、感染しても、神を信じ、恐れないというものです。弟子たちは、恐れることばっかりで、神に頼むしかないので共に集まり、必死に祈ったのです。ペンテコステの日の奇跡的出来事は、命がけの必死な祈りから起こったのです。

 間違いなく、日本にリバイバルは起こりません。リバイバルをと祈っていた教会や牧師たちが、簡単に礼拝を中止しているようでは無理でしょう。教会から感染者を起こしてはならないことは当然です。皆さんの一人が感染していて、この教会がクラスターとなったら、この教会の評判は日本社会では地に落ち、けなされ、攻撃されるでしょう。そういう危険を冒して、私たちは礼拝を保っているのです。そういう意味では、私は牧師職というものに、命がけです。皆さんは、ご自分の健康状態に気を付けて管理してください。教会を破滅させる可能性もあるのです。

 イエス様が、十字架に掛かったのは、誰もがイエス様を否定した時でした。イエス様は、その愚かな信者にご自分の生涯と、世界の福音を掛けたのです。そういう勝つか負けるかわからないことを信じて犠牲を覚悟するから戦いなのです。神は、その義を人間という罪びとに掛けたのです。もし、信仰者が、自分の死を惜しみ、損得を考えて行動していたら、キリストの十字架は敗北なのです。

 あなたにも人間としての弱さ、欠点、愚かさがあります。神はご存知です。しかし、そのことを不信仰の理由として正当化することはできません。神は、信仰者に信仰以外のことを要求していないのですから。不信仰とは、信仰以外のものを頼ることです。

 今日は聖霊待望会です。体調の悪い方は、お帰りください。配慮や注意深さは、教会を守る為に大事です。感情的にならずに、なすべきことをし、祈ってください。孤立してはいけません。

使徒2章1~13節

  • 2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
  • 2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
  • 2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
  • 2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
  • 2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
  • 2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
  • 2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
  • 2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
  • 2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
  • 2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
  • 2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
  • 2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。
  • 2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。