「この曲がった時代から救われなさい。」使徒2章23~41節

感染症の広がりをエピデミックEpidemicと言いますが、コロナウイルスよりも怖いのが、インフォデミックInfodemic人々の不安や恐怖をあおる情報の氾濫と言われ始めました。不安やストレスにより他者に攻撃的になる人々や、間違った情報によって異常行動をとる人々が多くおります。皆さんはニュースを見聞きしてどのように捉えているでしょうか。

ニュースに関心を持たず、感染しないように用心していない人は間違いなく愚かな人です。また、感染を恐れて悩んでばかりいる人も、信仰者とは言えないでしょう。「空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」(マタイ16・3)とイエス様は諭しました。

ライン祈祷会では、マタイ26章から、イエスご自身が将来のことを預言していることを語りました。「あなたがたはみな、今夜、わたしの故に躓きます。」(31)。ペテロに対して「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは3度、わたしを知らないと言います。」(34)。「人の子は罪びと達の手に渡されるのです。」(45)。さらに「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(64)と再臨の預言まで語っておられます。

イエス様は、苦しみの十字架を覚悟し、そして復活を預言し、さらに、裁きの時となる再臨まで預言されておられるのです。そして私たちは、これまで終末の兆候を学んできました。

飢饉が起こると預言されていますが、北東アフリカから中東、インドパキスタンに至るまでのイナゴの害は、殆どの作物を食い荒らし、飢饉を起こし、その地域では人々は生き残ることが難しくなっています。オーストラリアでは、3年以上の干ばつと大火災の後に豪雨が降り、農地を崩壊させています。豚熱(豚コレラ)による豚の大量処分も起こっており、今後、鳥インフルエンザも起こって来るでしょう。平和な時代は過ぎ去ったのです。

「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」(Ⅱコリント6・2)という時代は過ぎ去り、「目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」(マタイ24・42)。悟らなければならないことは、今日読んだ使徒の働きの時代は「恵みの時」であったということです。罪びと達は、聖霊の働きによる「救いの日」に救われたのです。そして、この2千年間は、主人が留守だったのです。そして、今や帰ろうとされているのです。

 イエス様のお言葉は、十字架よりも終末と再臨の話の方が多いことに気が付いていますか。一タラント預かった者は、主人が帰って来た時に、その与えられたものを用いようとしていないことで「外の暗闇に追い出」(マタイ25・30)されてしまいました。

 主は、私たちの罪の身代わりに罰を受ける為に十字架にかかり、救いを成就されました。それに感動する人は多くいるでしょう。そして、死からよみがえり、滅びない身体をもって天に昇られました。それを信じる人は少ないでしょう。さらに、世の終わりに全ての人を裁くために再び来られます。それを信じる人は更に少ないでしょう。「天に上げられたこのイエスは、天に昇って行かれるのをあなた方が見たと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1・11)と天使が語りました。

 復活は再臨と深くかかわっています。復活がなければ、再臨もありません。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(Ⅰコリント15・17)。

 世の中は、終末観をある程度意識しているかもしれません。しかし、「このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(2・36)という罪責感、罪人としての自覚を持つ人は殆どいないでしょう。人は、自分を守るため、自分の主張を正当化するために、平気で人を裁き、殺すのです。殺すということを自覚できない不感性、鈍さが、この時代にあっては、単に自分の感染の恐れるだけという、時代認識の鈍さでもあるのです。

 好き勝手に自己主張し、感染を撒き散らす危険性をも顧みない鈍感な人々が、全てを見通す神の裁きの座に着いた時、どんな思いになるでしょうか。「この曲がった時代から救われなさい」(2・40)に心打たれ、悔い改めて洗礼を受けた人が3千人もいたことは、「救いの日」だったからでしょう。今や、「裁きの日」が近づいているのです。このコロナウイルスや災害を前にして「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」(2・37)と救いを求める人々はおらず、また神を求める人は少ないのです。

 罪とは自己中心であり、自己中心だから、こんな時にインフォデミックを起こすのです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25・21)と、戻って来られた主に褒められるような働きをしていこうではありませんか。

使徒2章23~41節

  • 2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
  • 2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
  • 2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
  • 2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
  • 2:34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
  • 2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
  • 2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
  • 2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
  • 2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
  • 2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
  • 2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。