「主義主張で人を殺す。」使徒の働き9章1~17節

躾であるとして、子供を虐待する人々がいます。昨年はスポーツにおけるハラスメントが大きく問題になりました。主義主張が人を攻撃し、傷つけることにもなることはしばしば起こります。ハラスメントは、「嫌がらせ、いじめ」とも訳され、「他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること」を指します。社会において、パワハラ、セクハラなどがなくならない理由は、①それをする人が悪いことをしているとは思っていないこと、②相手に与えたダメージに気が付いていないこと、③受ける側に責任を転嫁していること、などにあります。先日、取引をしようと思っていた会社の社長が、講演で数人の女性の肩を叩き、顔を近づけているので、その会社との取引を止めました。

人間の心の繊細さを知るほどに、人の持つ主義主張が、他の人を傷つけることに気が付きます。結婚40年になりますが、妻との交流の年月の中で、私の何気のない言葉や行いが妻を傷つけることを悟ってきました。互いに攻撃的な夫婦を見ていると、自らの言動が相手を傷つけていることに気が付かず、相手の言動にばかり腹を立てています。基本的に、夫婦仲良く労りあっていない場合には、自分の言動に注意深くない、ということが言えます。

会社や学校における規則や規律というものも、指導者側の都合によって勝手に作られたものが多くあります。それらが、指導者側には拘束にならず、部下や生徒には拘束になる、ということは神の前に違反です。

私が大事にしている聖句に、「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8・32)があります。その聖句は、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そして、あなた方は真理を知り」(31)の後に来るものです。聖書をキリストからの私たちへの言葉であると意識する者は、自らをみことばによってチェックします。日本人は、外面的な行動によって、人に責められないか、立派に見えるかと判断する習慣をもっているようです。つまり、チェックが人に見られる自分なのです。人に対する自分の心ではないのです。

「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。」(Ⅰヨハネ2・5.6)。言動に聖書の言葉によらない人が多くおります。それはみことばを基準としていないからです。経験や習慣によってはいけません。

 パウロは、教育も家柄もあり、強い個性も人格もありました。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(Ⅰコリント8・1)とありますが、彼の築き上げた教育は、人を攻撃するものとなり、律法を背いているとみなされるクリスチャン「に対する脅かしと殺害の意に燃えて」(使徒9・1)いました。自らの主義主張が高じると人を殺しても正しいと、信じてしまうほど、人間は愚かで罪深いのです。

人格、徳というものは、自らの罪深さに気が付くことによってこそ、形成されてくるものなのです。自らの罪深さに気が付くには、聖霊とみことばによらなければなりません。残念ながら、聖霊とみことばにより頼むことは、生身の人間ではできません。そして、人を傷つけ、ハラスメントをしても、自分の罪に気が付かないのです。自分の行為を正当化し、人を大事にする、愛するということができない人、「愛のない者に、神はわかりません。」(Ⅰヨハネ4・8)。

 パウロには、神がかりの体験が起こりました。数日後、パウロは「イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」(使徒9・20)。しかし、数日前までクリスチャンを迫害していたパウロの急変に、クリスチャンも、迫害者たちも、一般人も驚き、信用されず、またパウロを殺そうとする動きも起こったので、故郷のタルソに行き、祈りの日々を過ごします。

 洗礼を受けたり、聖書を読んだら、すぐに信仰者として成長するわけではありません。自分が正しいと信じていた過去を否定し、自分の行動や性格を否定するような認罪感を持つみことばと聖霊に照らされた日々を過ごさなければなりません。聖書を1時間以上、ゆっくりと読み、そこに教えられることを記録し、祈りの中で過去と現在を、聖霊によって吟味していくことが必要なのです。これがないと、信仰者としての成熟はあり得ません。生身の人間の能力や性格で、表面上はクリスチャンらしく見えますが、人に見せる姿に囚われることは危険です。内面を改める為には、聖霊による祈りが不可欠なのです。

 長い信仰生活を送った信者や牧師が、高齢になって節度のない、神の祝福と平安のない日々を過ごすことを見受けます。残念ながら、救いと聖めは、神の御霊の業であり、その人の内面のものです。外面を気にし、成果を求めた人生に、平安がないことを見ています。教会に長く集い、奉仕をしてきた、などの外面のことで天国を勝手に保証してはいけません。愛は、主義主張も人を愛する故に捨て去ります。人生の功績も、地位も、賞賛も、神の国を保証するものではなく、却って邪魔になります。へりくだって、神の国の姿に自らを聖めましょう。

使徒の働き9章1~17節

  • 9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
  • 9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
  • 9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
  • 9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
  • 9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
  • 9:6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
  • 9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
  • 9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
  • 9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
  • 9:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
  • 9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」