「キリストの基準で人を知る。」Ⅱコリント書5章15~21節

中国旅行は非常に参考になりました。人口14億人は途方もなく多く、国土も広い、そして貧しさから急激に豊かになるために国家は統制し管理したのでしょう。国家の指導層は非常に優秀で、国の為に多少の犠牲や反対は当然なものとしたように見受けられます。中国用のWiFiを借りたのに、ネットも、ラインも、フェースブックも全く使えませんでした。邪魔な情報や意見を遮断し、国作りに必要なことだけを強化したように思われます。国家主席のポスターの顔に墨汁をぶちまけた女性が逮捕されて精神病院に入院させられ、1年半後に言葉を話せず反応しない状態となって解放されたという報道が2日にされていました。

中国の民衆は、逮捕されないことならば、やって良いという意識をもっているように感じました。多くの人々は、儲けること、金持ちになることに集中しています。バイクは歩道を走り回り、タバコや痰を道に吐き捨て、料理には人口調味料の味付けが強く、最先端の文化の中に、日本でも50年前にあった生活の風景があります。高齢者は非常に大事にされていて、中国の美点を見ました。

ロシアでは共産主義の失敗と宗教の勝利を見てきました。中国では、それを教訓に共産主義による強烈な指導がされているのを感じました。三自愛国教会の集会に参加しましたが、信者の真摯な信仰と祈りに感動しました。しかし、失礼ながら、文化の未成熟と個人の意識水準の低さを自覚していないと思いました。私が尊敬する中華の文明としての尊厳は、一部の教養ある人々にしか、保たれていないように感じました。

アメリカでも日本でも、政治指導者に対する批判やありのままの情報は、民主主義の権利として認められています。どのような情報も個人は獲得する権利が認められています。犯罪者かどうかは、公開の裁判で証拠をもって裁かれます。弱者保護は国家でも個人でも義務とされます。ハラスメントは、詫びてすむものではなく、罰則を伴います。

信教の自由とは、国家をもってしても個人の宗教に干渉してはならないということで、近代国家の基本です。宗教というものは、信仰の為に犠牲を払うことも是とし、自らの損得よりも神の戒めを重視するというものです。つまり、欲望に釣られない、というものなので、指導者にとっては人を操縦するには非常に都合の悪いものとなります。

さて、だからこそ宗教者というものは、他の人を思い通りに動かそうとしてはならないのです。信仰者は、「人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(5・16)

最初の福音書を聖霊に導かれて記したマルコは、エルサレムの富裕な家に育ち、ペテロが天使によって牢から解放された時に訪ねた、敬虔な信仰者マリヤの息子でした(使徒12・12)。バルナバの従弟(コロサイ4・10)で第一次伝道旅行では本名ヨハネとも呼ばれて「助手として連れていた。」(使徒13・5)のですが、伝道の困難さの中でパウロが石打にあったりしたのを見て、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14・22)と教えられているのにも関わらず、エルサレムに逃げ帰るのです。

「パウロは、パンフリアで一行から離れてしまい、仕事の為に同行しなかったような者は一緒に連れて行かない方が良いと考えた。」(使徒15・38)ので、「別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて」(39)、伝道を続けたのです。人は生まれながらの風習や考え方によって生きており、信仰自体もそのようにして形成されてしまいます。中国だけでなく、日本でも、そのようにして成熟した信仰を形成することができないのです。マルコは、成熟した信仰者バルナバ(「慰めの子」という意味、本名ヨセフ)によって、「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(5・15)ということを教えられ、「新しく造られた者」(17)となったのです。

 迫害や困難、そして状況によって歩み方を変える人は、信仰から滑り落ちます。しかし、真の信仰者は、迫害によって却って強くなります。中国におけるクリスチャンは大迫害の中で増えてきました。中国政府は、だからこそ、キリスト教を脅威と感じて迫害を、新たな方法で実行し始めているのです。

牧師になってからの15年は、本当に辛いものでした。死にそうになったことは何回もあります。それを問題にせず、神を信頼し続けて、この世の基準ではなく、「違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちに委ねられた」(19)者として生きるように「新しく造られた」のです。

 パウロは後に、「マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」(Ⅱテモテ4・11)と認め、牢獄でもマルコは「私の同労者たち、マルコ」(ピレモン1・24)と信頼されています。そして、マルコによる福音書を書くほどに、伝道の歩みとイエス・キリストの真理を知っていったのです。あなたもまた、マルコのように教えられ、バルナバのように教え育てる者となってください。

Ⅱコリント書5章15~21節

  • 5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
  • 5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
  • 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
  • 5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
  • 5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
  • 5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
  • 5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。