「神に仕える者との違いを見る。」マラキ書3章14~18節

ロシアでは、1918年からの2年間で数千人の聖職者と数万人の信徒が殺害され、聖堂も破壊されました。反対した市民の宗教行進には銃撃が浴びせられました。それでも1930年に、ロシア正教会は、3万の教会、数千万人の信徒を擁しておりました。迫害は更に激しくなり、1932年には修道院は殆ど破壊され、殆どの聖職者は殺害されました。家庭に信仰の印であるイコンを所有していても投獄され、教会の財産は完全に没収されました。1960年代のフルシチョフ時代も徹底的な迫害は続き、信徒は亡命したりして信仰を守りました。救世主ハリストス大聖堂は、ソビエト大宮殿に作り替える為に爆破されましたが、結局は屋外市営温水プールになりました。

1991年のソ連崩壊後、ロシア正教会は急激に教勢を回復し、人口1億4600万人のうち9000万人の信徒を擁しています。ハリストス大聖堂の再建は復興の第一とされ、2000年には完成しました。私たちが訪問した総主教庁も汚され、トイレや倉庫、少年院などに使われたのです。ソ連領であったウズベキスタンでも、訪問した宗教施設は倉庫やスポーツセンターなどにされていました。

歴史上、このような迫害は繰り返されています。バビロン捕囚から帰った人々は、「最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。」(エズラ3・12)とあります。ハリストス大聖堂が再建された時に、信者たちは同じような状況だったことでしょう。

エルサレム神殿の破壊は、旧約聖書最後のネヘミヤ記やマラキ書の紀元前4百数十年の時代からマタイ福音書の紀元前十年頃の間に、セレウコス朝シリアのアンティオコス・エピファネスによって為されています。そのことはダニエル書に預言されています。「彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行い、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。」(ダニエル8・23.24)。この8章には、メディアとペルシャを破るギリシャのアレキサンダー大王のことが記されています。

その後ヘロデ大王による第三神殿ができますが、ご存知のようにイエス・キリストの神殿破壊預言があるのです(マタイ26・61)。紀元70年ローマ軍によってエルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人はその地域の居住と出入りを禁じられ、ディアスポラ(離散民族)となったのです。

1948年5月14日、イスラエル独立宣言が読み上げられた時のユダヤ人の喜びは、1878年間の苦労と忍耐、そして神への信頼が勝利したものでした。

 ロシア正教会の礼拝は、式次第では3時間、私たちが参加したものでは2時間10分間、立ちっぱなしで讃美と祈り、応答、朗読、訓戒、などが続けられるものでした。シナゴーグも訪問しましたが、敬虔なユダヤ人は、今でも安息日には全く作業せず、日に三回の祈り、聖書の暗唱などを身に着けています。むろん、イスラム教の戒めも強固なものです。

 これらの宗教と迫害にも関わらず信仰を保ち、利得や思惑よりも神の戒めを大事にする姿勢に、私は強く打たれました。現代日本及びアメリカのキリスト教は、祝福と繁栄を強調します。それは、幸せを求める人の欲望を叶えるものとして人々を魅了します。また、キリスト教の神学は、どのような論理にも対抗しうる弁証論をもっています。しかし、理屈や論理や、迫害に際して、合理的に対処することを正当化します。ソ連の迫害下において、信者と教会を守るという名目で政府や共産主義に協力した聖職者が、後に糾弾され、立場を追われています。なぜなら殆どの信者が、60年もの間、迫害に耐えて信仰を守ってきたからです。

 「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の【主】の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。」(3・14)とユダヤ人やロシア人は思ったのでしょうか。

 山上の垂訓(マタイ5~7章)の教えは、神の国に生きる為には、この世の価値観は捨てなさい、ということです。自分の幸せや繁栄を求める者は神の国にふさわしくない、という極論です。確かに、現代の人々の悩みは、これらに結び付いています。「主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。」(3・16)。私たちが語り合うことは、そして迫害下の信仰者の語り合ったことは、「神に仕え、神の戒めを守ろう。」ということです。言い訳は無しです。

 私にとって牧師になる決心をしてから20年は暗黒の時でした。これでもか、これでもかと試練が続き、忍耐も尽き、ただ神に祈る日々でした。そして、自分の思い通りになることを全て諦め、主の前に悔い改めた後、「ただ、いのちの日の限り主に仕えるだけだ。」と腹を据えたのでした。今、確かに私は、「正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。」

マラキ書3章14~18節

  • 3:14 あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の【主】の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。
  • 3:15 今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる」と。
  • 3:16 そのとき、【主】を恐れる者たちが、互いに語り合った。【主】は耳を傾けて、これを聞かれた。【主】を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。
  • 3:17 「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の【主】は仰せられる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
  • 3:18 あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。