「油断せずに祈る。」マタイ福音書6章5~13節

日本ラグビーの主将リーチ・マイケルが負けた相手国の最優秀選手に日本刀を贈っています。彼は「自分達のハードな練習によって、何度も何度も火入れし、叩いて強くした刀は、世界でも負けない強度を誇る」と選手たちを励ましたそうです。

祈りについて、日本語で願いや執り成しを数分祈っただけで、自分は祈っていると自負しているとしたら間違いです。「絶えず祈りなさい。」(Ⅰテサロニケ5・17)は、間違いなく合計1時間以上です。「イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」(ルカ6・12)。預言者アンナは、「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。」(ルカ2・37)。祈りとは、神に対して自らの全てを献げ、神に問い、神に従う意思を示すものです。シメオンもハンナも、そのような献身した信仰者であったからこそ、聖霊によって幼子が救い主であることに気が付いたのです。願いことで済ますような祈りの持ち主の祈りが叶えられるなどということはありません。皆さんの祈りが聞かれた時は、どんな時だったでしょうか。

「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14・38)とあるように、祈りによってスピリットを強くしないと誘惑に負け、人生の戦いにも立ち向かうことができないのです。霊の弱い人は、耐えることができず、弱音を吐いたり、言い訳をしたり、逃げたりして、結局は人生の試練に立ち向かうことができないのです。

私自身は、霊を強くし、祈りの腰を強めるために、徹夜の祈りはもちろん、真夜中に墓場に行ったり、山頂に行ったりして祈りました。断食は21日を最長に、15日、10日など限りなくしています。同じように生きても、叩かれ練られた魂は日本刀のように簡単には折れないのです。根気よく叩き火入れすることによって刀は強くなり、素材が固いと言われる刃物とは比べられない切味を現わすのです。合理性と言われますが、物事を論理では分けられない成否を、スポーツや勝負では表わすのです。ことの勝敗はスピリットです。

ともかくは、長く祈る習慣を訓練して身に着けることです。30分以上祈ることから始めてください。信仰は武道のようなものです。根気よく修練を積めば強くなるように、努力して祈れば、試練にも負けないスピリットが練りだされるのです。そのためには、聖霊のバプテスマを受け、異言の祈りをすることです。パウロは、「私は、あなたがたの誰よりも多くの異言を話す」(Ⅰコリント14・18)と諭しています。

 一人だけで祈ることが大事です。「祈るために、ひとりで山に登られた。」(マタイ14・23)。「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1・35)。「群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。」(マルコ6・46)。

また、異言の祈りをしながら、自らの心の底まで神に明け渡し、神に委ねることが必要です。「祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6・6)。人の心を意識したり、この世の習いに合わせたり、自分の欲望が叶うような祈りではいけません(マタイ6・5)。

 祈りの中で、自分の心を点検し、恨みや憎しみを持っていることに気が付いたら、それをイエスの十字架を覚えて赦さなければなりません。「祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(マルコ11・25)。「あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6・28)。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」(6・12)。人を赦さない人に救いの喜びはないのです。

 「御名があがめられますように。」とは、他の人はもちろんのこと、自らが全てのこと、悪いことも苦しいことも、神の御手にあることとして感謝することです。そのようにしてこそ、あなたの内に神の国が現れるのです。つまり、「みこころが地でも行われ」ることなのです。

 サタンや悪人はおり、人々を騙し攻撃してきます。「 見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。」(詩11・2)。しかし、神により頼んでいる人を攻撃することはできません。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈ることができる人は幸いです。

 神を信じている人は、サタンも悪人もいることも知っています。罪にも悪にも鈍いのが、罪人のしるしです。自らが罪を犯すことを知っており、その罪の代価が十字架という尊い犠牲が必要であることを悟らない人たちが、却って悪に寛容なのです。政治家でも、汚職をする人でも、お互いに馴れ合いで生きているのです。「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(ルカ21・36)

マタイ福音書6章5~13節

  • 6:5また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
  • 6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
  • 6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
  • 6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
  • 6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
  • 6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
  • 6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
  • 6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
  • 6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕