「自らの在り方を捨て。」ピリピ2章6~14節

 怒ることも、悩むことも、言い訳をすることも皆、自分というものに固執するからです。能力のある人、自信のある人は、断定的にものを言い、自信のない人は、否定的・消極的にものを言い、人の目を気にする人は、相手に応じてものを言います。そして、うまくいかない時には弁解をするのです。

 罪を認めて救われていない人はそのようなものです。クリスチャンであっても、自分に囚われるということは、まだ「肉に属する人」(Ⅰコリント3・1)なのです。私たちは、肉なる人であり、罪人です。つまり、完全でもなく、完全にもなりえません。しかし、だからといって、「御霊に属する人」になることを願わなければ、神の国への道を歩めません。

 私も多くの人と接しますが、結局のところ、クリスチャンとは、魂の聖めを目指す人、ということになるのではないかと考えています。しばしば伝道をして多くの人を救いに導くことが重視されますが、これは営業能力と同じようで賜物がなければできないように思います。私自身は、洗礼に導いた人が信者時代に50人以上、牧師になってからはそれ以上おりますが、私にはそこから離れた人々のことが痛みです。救われて多くの実を結び、聖められ、主に従っている信仰者と共に歩むことは無上の喜びです。

 妻との会話の中でたまに「あなたは未信者のような言い方をする。」と感想を伝えることがあります。それは、日常の何気ない物事に対する判断が生まれながらの習慣や風習に影響されていて、神が日常を支配し、取り計らっておられることを、つい見逃してしまうからです。私たちは、神が治めておられ、すべてを見ておられる神の国の住民であることを忘れてしまうのです。

 私たちが、神を信じたということは、自らの罪性に絶望し、またこの世の淫らさに嫌悪したからです。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」(Ⅰヨハネ2・15.16)。この世に固執している人は、この世の人であり、神の国を待ち望む人にとって、「旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」(Ⅰペテロ2・11)となるのです。

 確かに、私はラグビーのW杯も観るし、ゴルフもするし、ガーデニングも好きです。妻と一緒に過ごすことに、神の国の心地もします。ただ、それは、あくまで寄留者としての生活なのです。

神の子キリストが、「神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」。それは、人間の罪性が死に値し、地獄に陥るものであるからです。自らを肯定する者はキリストの十字架をないがしろにするのです。

先週お話ししたロシア正教のキリル総主教は、」世界の終りが訪れるのは人間社会が存立不可能になった場合だ。社会が存在するための資源を使い果たしたときだ。どのような場合にそれが起きる可能性があるか?悪の完全な支配が訪れた場合だ」と述べた。

 神がソドムとゴモラを滅ぼされた時、ロトの妻は俗悪なソドムの生活を懐かしんで振り返り、「塩の柱になってしまった。」(創世記19・26)とあります。「終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、」((Ⅱペテロ3・3)、終末と再臨を否定します。

 つまり、現生主義か神の国主義かで、生き方が変わるのです。魂の救われていない人は、自分の歩み、考え、習慣、などを強調し、それに付け加えること、自分の成長や発展を望むのです。つまり、自分の在り方を捨てられないのです。しかし、自分をいくら成長させたところで、神の国に行くには届かないのです。「十字架の死」によってしか、私たちは救われないのです。「イエス・キリストは主である」と告白するのは救われた者のみなのです。

 召天者記念礼拝において、私には、天国に召されたとは思えない人々のことが心に突き刺さります。彼らは、自分流の在り方で教会に奉仕し、自分はクリスチャンであると自認していました。しかし、聖書を日常的に読まず、聖霊に教えられず、彼らの品性は生まれつきのままでした。それでも神の愛と赦しは信じていたのです。また、教会を離れ、そのまま生きている人もいます。彼らは、教会とイエス様に熱心だったけれども、何の御利益もなかったと言うでしょう。魂の救いは、この世の道の延長にはないのです。

 「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」。歳を取るほど、忙しくなります。労苦は増えるばかりです。しかし、主にある平安と喜びは増えるばかりです。なぜなら、成果を求めず、自分が認められることも求めず、安逸も求めなければ、ただ日々、主に仕えてこの世の道を神の国まで歩むばかりだからです。現在は、教団の組織改革の為の論文を書いています。会社の消費税対策も、クリニックの人事も、人々への執り成しも日夜多くあります。自分の権利と在り方を求めなければ、何をしても、何ができなくても問題はありません。

ピリピ2章6~14節

  • 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
  • 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
  • 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
  • 2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
  • 2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
  • 2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
  • 2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。
  • 2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
  • 2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。