「麗しく老いる為に」創世記24章58~67節

今日の聖句は、聖書の中でも最も麗しい夫婦となる男女の出会いの場面です。大事なことは、どのようにして、この麗しい出会いとなったのか、そして、この後はどうなったのか、ということです。

 さて、日本の人間関係は、外側重視であり内側に対して、締め付けや拘束、そして要求が強くなるように思われます。レストランや店の従業員に対しては愛想が良く、家族に対しては厳しい夫婦をよく見かけます。熟年離婚の原因をネットで見ますと、女性側は毎日家に居る夫の嫌な所、家事ができず、要求ばかりすることに嫌になるようです。最近は、夫の側からの離婚の申し出もあり、妻が自分を大切にしていない、文句ばかり言うなどということがあるようです。

 離婚の決心は、子どもが成人したから、離婚しても経済的にやっていけるから、老齢の親の世話が大変だから、などということもあります。他に好きな人ができたから、などということもありますが、結婚した人と仲良くできなかったのに、次の人ともうまくいくはずもないようです。離婚後は、男性では料理ができなかったり、面倒くさがったりして早死にする率が多いようですが、女性ではあまり関係ないようです。そして、世界的に見て、家事をしない夫との離婚率が高く、夫婦で家事を分担する場合には、あまり離婚をしないようです。

 昨日は、大学の同窓会に行きました。語ることは仕事の話ばかりで、退職したのに過去の仕事や酒飲みのこと、遊びのことです。これでは男同士集まるのは楽しいだろうけれど、妻たちはどうしているのかと心配になりました。感想を言うと、男は自分勝手な存在だ、ということです。それでは、女性はどうかというと、結婚当座は夫やその仕事のことを気遣い、子育てにも専念したけれども、そのうちに愛の無い現実に気が付き、やはり、自分勝手になっていったというところでしょう。

 このようなことは、誰でも気が付いています。私は、それが聖書的ではない考え方や風習に基づいているということを指摘するのです。アジアでは男尊女卑が強いですが、その他にも尊卑や上下関係などを強調することが多いです。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マタイ20・26)とイエス様は言われました。韓国を見ていると「指導者は何を言っても下の者は従わなければならない。」という儒教的な尊卑の考え方が強いように見受けられます。それでは、指導者は堕落してしまいます。夫も、親も、先生も、上司も、話し合いや交流の中で物事を為していこうというものがなければ、苛立ちや不満が残ります。夫婦の不仲も勝敗思考が大きいように思います。

 聖書の教えは、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会の為にご自身を捧げられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5・25)とあるのに、日本の風習に従って、威張り、命令し、妻を労わり愛することをしない夫たちが多いのです。「妻もまた、自分の夫を敬いなさい。」(5・33)をしないのです。

私自身は、結婚以来39年、神の命令として、妻を労わり愛するように努めてきました。多くの人が愛を感情的なものであると誤解しています。聖書における愛は、状況や相手に左右されず、感情や損得に基づかず、相手を聖書の教えに基づいて愛することを意味します。私は、毎日の祈りの中で、妻を愛しているか、傷つけてはいないかをチェックします。そして、聖霊によって導かれながら、自分の行動を吟味し、変えていくのです。そして、自分でもすっかり人格が変わり、行動も変わってきたことを感じます。「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」(Ⅱコリント5・17)

他人を変えようとすることは傲慢なことです。妻もまた他人ですが、聖書は、「夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。」(エペソ5・28)とありますから、変えようとせずに愛すれば良いのです。愛の報いを求めることが、愛とは言いません。

「 老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。」(テトス2・2-5)

 高齢者の方々が、この聖句のように自らを戒めれば、間違いなく平安を確保し、神と人から祝福を受けます。他人に対する要求を繰り返すならば、それは罪びとの報いを受けます。「罪の奴隷であった時には、あなたがたは義については、自由に振る舞っていました。」(ローマ6・20)。この世の人々のように不平や不満を漏らしてはいけません。遠い人、関係の無い人に優しくするのは簡単です。最も身近な人を愛することができるならば、どんな人も愛せるようになります。イサクとリベカは一夫一妻制を守り、二人仲良く信仰生活を守り、豊かな人生を過ごしました。出会いの時は未熟であっても、その後も罪びとであっても、或は、伴侶がいなくても、自らを戒めて生きるならば、神のことばがそしられることはなく、幸せになるでしょう。

創世記24章58~67節

  • 24:58 それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります」と答えた。
  • 24:59 そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。
  • 24:60 彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」
  • 24:61 リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。
  • 24:62 そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。
  • 24:63 イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。
  • 24:64 リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、
  • 24:65 そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。
  • 24:66 しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。
  • 24:67 イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。