「道を外して陥る恐怖」Ⅰコリント4章10~20節 櫻井圀郎師

地球の温暖化、否、地球の灼熱化、尋常ではありません。この灼熱は燃えるゲヘナの兆候であり、地獄が近づいている証左と考えますが、如何でしょう? 

 二六節。「真理の知識を受けた後、自ら進んで違反するなら、もはや、贖罪されえない。」と言います。「真理の知識」とは、神に対する我らの罪が赦され、神の民とされ、神とともに歩むことが許されるという福音の真理です。しかも、基督の生命を代価にした地位であり、極めて高価であるのみならず、最高の価値ある身分です。

 それなのに、自分の意思で、自主的・自発的に、神の定めに違反するなら救い難いことです。基督を犠牲にして贖われた身分なのに、あえて捨てるなら、もはや第二の福音はありません。基督を二度も十字架につけることはできないからです。

 日本のような無神論の国では、自分の運命は自分で切り拓くべきだと教えられていますが、完全に誤っています。誰一人、自分の出自を決定できません。いつどこで生まれ、男か女か、知能技能、運動能力、配偶者や会社の同僚、学校や会社、居住環境、仕事や職業……、神が一人一人に選んで定められ、導いておられるのです。基督者の歩みとは、その道を認識し、その道をしっかりと歩むことです。

 その道を外すことが神への違反です。この世は悪魔の支配領域ですから、あらゆる面で悪魔の誘惑があります。楽して金儲けのできる話、信仰とは異なるが、社会的に認められ、良い地位や環境が与えられる話などなど。悪魔の誘惑は道を外させることです。

 道を外した者は、二七節、「裁きを待つのは何とも恐ろしい。やがて神の熱心の火が焼き尽くす」のです。神の劫火は、永遠の炎です。

 二八節・二九節、「モーセの律法を破った者は、二人・三人の証言により憐れみなく死刑。それと比べて如何に悪質かを考えよ。神の子を踏み躙り、御子の犠牲による契約の血を汚れと見做し、恵みの御霊を侮る者を罰するに、如何なる重罰が必要かを。」と言います。

 人間社会では、死刑は極刑です。殆どの日本人は「一巻の終わり」との認識です。唯物論の考え方です。実際には、地上で死刑になっても「終わり」ではなく、その先があります。私たちの主イエスも、ローマ帝国で死刑に処せられましたが、現に生きておられます。神を否定する無神論・無宗教の欺瞞です。死んで終わると思うから、殺人を企み、自殺を図るのです。

地上には万物に「終わり」がありますが、神の世界には「終わり」はありません。永遠の死、第二の死、灼熱の火、地獄の炎とは、終わりなく、延々と存在するのです。たとえ最後の審判で「地獄」と言い渡されたとしても、一瞬で終わるなら耐えられます。しかし、「終わりなく」となると、絶対に無理です。そのことを知れば、信仰は元より、人間としての行動の全般にも変化が生まれるでしょう。悪魔の誘惑はこれを無視させます。

 御言葉が言うのは、第一義的に、神の恵みにより救いを受けてからの神否定、背教ですが、背教にも色々あります。文字通りに、信仰を捨てて敵対する人もいれば、敬虔な信仰者を装いながら、基督教界の重鎮だの、大先生・指導者だのと奉られながら、本当のところで神の子を踏み躙り、契約の血を無にし、聖霊を侮る者もいます。むしろ、そういう人達の方が問題です。知らず知らずに、信者が悪魔の側に引き寄せられてしまいますから。

 御言葉は「如何なる重罰が必要か」というので、地獄は一律でないのでしょう。天国も一律ではないのですから、当然でしょうか。一旦、道を誤ったとしても、悔い改めて、元の道に引き返すなら、赦しは有効です。道を外して違う道に行ってしまった人は当然に裁きを受けますが、最も悪質なのは、道を外していないと装いながら、異なった道を示し、人々をそれに誘導する人です。これらこそ、「聖霊を侮る大悪人」でしょう。

 三〇節・三一節では、「『復讐は我にあり。我が報う。』と言い、『主が民を裁く。』と言うを我らは知る。生ける神の手に陥るは恐ろしい。」と結ばれています。

 神が「復讐は我にあり」と言うのは、民が勝手に復讐することを留めているからです。罪人の世界である人間社会においては、不法・不正が横行し、殺人・傷害・暴力、詐欺・窃盗・横領、名誉毀損・信用毀損・営業妨害など、犯罪行為や不法行為が行われ、ズルや嘘が日常茶飯事です。「やられたらやり返す」というのが、古来の法理なのですが、神は敢えて、被害を受けてもやり返すなと命じます。見苦しい復讐合戦が展開されることを望まれないからです。その代わり、その保障として、「復讐は神にあり」なのです。

 全知全能の神が落とし前をつけてくれるのです。適正妥当な報復、文句の言えない復讐です。聖書では「倍返し」が基本なので、決して軽くはありません。人間にはある遠慮や躊躇もありませんから、厳しい報復となるでしょう。道を外して陥る恐怖、計り知れません。故に、悪魔に支配された世の論理に従うのではなく、主なる神の言葉に従って、各自に定められた道を着実に歩むのです。 基督者の信仰、どうあるべきか考えていきましょう。

Ⅰコリント4章10~20節

  • 10:26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
  • 10:27 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
  • 10:28 だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
  • 10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
  • 10:30 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。
  • 10:31 生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。